2016年12月02日

地質時代 2014年8月第2号

26歳の若き土木技術者が80年前に創造した世界に類を見ないドーム型防波堤

稚内港北防波堤ドーム

1936年(昭和11年)稚内築港事務所の26歳の技手、土谷実(1904~1997)が設計。稚内特有の強風とサハリンからの高波を防ぐために考案された、庇の付いた防波堤です。土谷は築港事務所の先輩技術者である平尾俊雄から指導を受け、平尾がフリーハンドで描いたものを具体化しました。

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事実の把握、そして歴史に学べ

この構造物は、見栄や利権や営利からではなく、強風や高波から人々を守る目的で設計されました。

平尾はこの北防波堤設計にあたり、土谷に次のことを命じました。波の高さと基礎となるべき当時は主流の木杭の腐食調査です。その結果、木杭は虫に食われ役に立たないこと、高波の高さは24尺(7.27m)を優に超えることが判明しました。
そこで、平尾は防波堤に天蓋を設け、コンクリート杭を使う決断をしました。全体の形状は越波の観察からイメージしたものです。

土谷は途方に暮れました。いまだかつて経験したことのない設計でした。彼が採用したのは、彼が経験したコンクリートアーチ橋とギリシャ・ローマ建築の資料でした。「歴史に学べ」という格言の重さを再認識しました。

江戸城無血開城は生産力の発展と新しい人間関係の産物だった!

大政奉還と勝・西郷会談

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明治維新は、古今東西の革命の例にもれず戦争の産物でした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、野洲梁田の戦い、市川・船橋戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、東北戦争、函館戦争など無数の戦いが全国で戦われました。前後して1868年幕府の血を求める官軍の行進が江戸に向かった。

当時の江戸は100万都市であり、日本中のモノの基地であった。江戸との物流が地方の生命線でもあった。しかし、日本列島の地形は、山と谷、川と海に分断させられ、その結果幾多の藩が生まれ、戦国時代には派遣を争った。江戸時代になって、農業生産を飛躍的に発展させる土木工事が行われ、農民たちは協力して土木工事に参加し、農村での共同体意識は格段に高まっていった。

さらに、広重の東海道五三次をみるとそこには各宿場の風景と生き生きとした人々の姿がすべての絵に描かれている。出発の日本橋では様々な職業の人が橋を覆い隠すよう歩いている。終点の京都三条大橋でも同様である。生産力の発展が日本の地形的分断性を物流によって克服させ、江戸を単なる幕府の居城から日本の中心という意識がすべての日本人に共有されていたことが伺える。そのような意識が勝と西郷をとらえ、江戸の壊滅は地方の壊滅に繋がると判断し、無血開城に繋がったように思う。

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地質時代 2014年7月第1号

徳川家康の大土木工事が関東平野を作り、江戸260年の土台を作った!

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利根川東遷

江戸湾に注いでいた利根川の流路が現在の形になったのは、近世初頭の約60年間( 1594年~ 1654年)にわたって行われた利根川東遷と呼ばれる改修工事の結果です。その目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を促進すること。舟運を開いて、東北と関東との輸送体系を確立することにありました。この工事によって、現在の霞ヶ浦は、川が運んできた土砂のために河口部分がせき止められ大きな湖となりました。現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。

江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。
江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。

その治水と開拓の統括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。

その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り、小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。

部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。(輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。

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広重の江戸百景より、箕輪、金杉、三河島あたりが丹頂鶴が遊ぶ湿地帯だったことが伺える。

対応するのが紀州流と呼ばれる治水技術で、強固な堤防によって河川を切り離して小氾濫も許さない考え方で、土地を目一杯活用できますがいったん破堤すると被害が大きい欠点があります。畿内では人口密集が早い時代から始まっていたために土地を目一杯使える手段が採用されていたのかもしれません。

利根川治水でも1629年に作られた見沼貯水池が1700頃に農地拡大の求めに応じて農地化され、はるか北から見沼用水や葛西用水が引かれて、かっての入間川(荒川)と現在の江戸川の間の広大な土地は人工的な水路によってコントロールされるようになります。明治以降では欧米技術が導入されていますが、紀州流の考え方を近代技術で強化したものともいえます。河川と周辺環境が切り離されてしまう欠点がありますが、最近ではそうならないような工夫もなされているようです。

利根川東遷は、大穀倉地帯をもたらした!

利根川スペック

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

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約1000年前

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

利根川洪水の歴史

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地質調査会社の選び方

ネット検索「地盤調査」では、「地盤調査専門会社」ではなく、「地盤改良工事会社」の地盤調査が上位ヒットします。なぜ、そうなってしまったのか?歴史をたどってみます。

地震年代地震名制度制定年代法律名
1923年関東大震災1924年市街地建築法改正(柱を太く、地震力)
1948年福井地震1950年建築基準法制定(地震に対応する強度)。
東京丸の内の第二電話局の地盤調査で初めて標準貫入試験を実施。
  1952年建築基礎構造基準(日本建築学会)
1964年新潟地震1971年建築基準法改正(木造にコンクリート布基礎を規定)
1978年宮城県沖地震1981年新耐震設計法(地震力に対する強度改正)
1995年阪神・淡路大震災2000年建築基準法改正(地盤調査の義務化)
  2001年品確法性能表示制度スタート
2011年東日本大震災  

 

1923年の関東大震災は地盤を科学的に解明するきっかけとなりました。復興庁が初めて組織的計画的に地質調査をはじめました。戦前の地質調査担当者は内務省などに籍を置く公務員が多かったようです。地盤調査の誕生は公共的必要性によるものです。当時は大地震から人間を守るという公的利益は、商業的利益とはあいいれないものだったからです。

終戦後の10年間は、建設省土木研究所、運輸省港湾技術研究所、国鉄鉄道技術研究所が地質調査の技術確立に大きな役割を果たしました。これらの研究所の技術発展とともに民間の地質調査も発展してきました。このような様々な研究の土台には、地質調査技術者の経験と技術は不可欠なものとしてありました。そしてそれらは民間の地盤調査会社が担うことになります。

1964年の新潟地震によって、液状化現象が注目され始め、様々な研究が開始され、地盤調査は広く浸透していくことになりました。

2000年までは、地盤調査専門会社は、主に官公庁の土木工事、建築工事、民間のビルやマンションの支持杭のための地盤調査を受注し発展してきました。この場合、ボーリング地質調査が主体でした。また、スウェーデン式サウンディングは、ボーリング地質調査の補完として実施されていました。

2000年の地盤調査の実質義務化と2001年の品確法制定により、戸建て住宅の地盤調査が本格化することになりました。飛躍的に増加した需要のために、地盤調査専門会社のスウェーデン式サンディング調査から、地盤改良会社によるスウェーデン式サウンディング調査が発展成長してきました。その要因としては、地盤調査費に比べ地盤改良費の金額が大きく、地盤調査費をサービスしても改良工事を受注しやすくなることにメリットを見出したからです。こうして、地盤調査が地盤改良の「おまけ」になってしまい、その公共性が利潤第一主義によってのみこまれることになりました。

さらに、地盤調査会社の体質がこのような現象に拍車をかけました。その体質とは、解析技術部門と現場調査部門の分割です。それは、高度経済成長期の終わりによって、もたらされました。長引く不況が現場調査部門を分割しなければ生き残れない状況が生まれたからです。現在ではほとんどの地盤調査会社は現場部門を持たず、協力会社、下請会、一人親方に依存しています。解析技術と現場技術が分断されることによって、現場部門は仕事を切らさないために価格競争を展開します。そして地盤改良会社が、スウェーデン式サウンディングを独占していきました。

建設物価2015年8月号のスウェーデン式サウンディングの単価は4,540円/mです。1現場5m×5ヵ所の標準的調査では25m×4,540円/m=113,500円になりますが、現状は、1現場18,000円~25,000円が相場のようです。そして、この調査費の格差を覆い隠すのが、地盤保険とかセカンドオピニオンと言われるものです。

地盤調査には、経験を積んだ技術者が必要です。現場の自然環境の観察、土の色、水位、先端から伝わる感覚、現場だけでなく、参考文献の学習、地学や土質力学の基礎的知識をもった一人の技術者によって分析判断されます。それゆえ地質調査の技術者は、フォアマンと呼ばれます。第一観察者という意味です。彼は、自分のもてる知識と経験でその現場を観察する最初の人間としての使命感と誇りをもって仕事に取組みます。日本で地盤調査が生まれた公共的役割とそれへの誇りが技術を磨いてきたからです。

ところが、最近のSDSという調査では現場での判断をさせず(現場の人間はどういう地盤かわからず)電波でデータを飛ばして、そこで判断するシステムだそうです。それは、もはや技術者ではなく、機械を使う作業員でしかありません。

たとえば、現場で、地盤調査技術者が、自分の感想や判断をいう。現場監督がそれを聞いて基礎施工時の留意点を確認する。このコミュニケーションこそ良い品質を保証する土台であると考えます。私たちは、そのような会社を目指しています。