2017年10月

地質時代 第13号 平成29年10月15日発行

 

法隆寺五重塔

法隆寺の制耐震技術の脅威

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
  世界最古の木造建築物である法隆寺は仏教布教のため聖徳太子によって608年建立された。「大化の改新」では仏教興隆の恩人である蘇我氏が滅ぼされた。670年落雷にて消失。すぐに再建された。1600~1606年慶長大修理、1692~1707年桂昌院による大修理、明治時代の{廃仏毀釈}では回廊内に牛馬を繋がれる状況に陥った。昭和の大修理(1933~1953年)で当初に近い復元ができた。様々な政変を乗り越えさせた原動力は日本人の「聖徳太子」信仰が法隆寺を守り続けたかのようだ。

法隆寺を支える地盤について
  法隆寺はマグニチュード7.0以上の地震を46回も経験し、乗り切ってきた。その最大の要因は、地形地質である。この地域は砂礫質台地と呼ばれる地形で、隆起によって生じた段丘を形成し、表層に約5m以上の砂礫層、砂質土層を持つ安定した地盤。つまり揺れにくく、液状化しない場所を選定したことになる。建設担当者に地盤や基礎に対する経験と知識があったことは間違いない。

日本独自の建築技術「心柱」の確立
 第一は、日本は雨の多い国で中国の年間降雨量の約2倍だ。このため、雨水が建物から流れ落ち、土台周辺の土壌に降り注ぐと、五重塔がいずれ沈んでしまいかねない。これを防ぐために、大工たちは、庇を壁からかなり離して長く造った。建物の全幅の50%以上にもなる軒だ。この巨大に張り出した部分を支えるために、片持ち梁を庇ごとに採用している。
 第二は、建造物の著しい燃えやすさへの対抗策として、庇には瓦が積まれ、木造建築物に火が燃え広がらないようになっている。
 第三は、法隆寺の五重塔は、現代建築に見られるような、中央の耐力柱がない。上に行くほど細くなっていく構造のため、耐力垂直柱で繋げている部分は一つもない。 各階が強固に繋がっているわけではなく、ただ単純に重ねたところを取り付け具でゆるく留めているのみなのだ。この構造は実際、地震国では大変な強みになる。地震の際、上下に重なり合った各階がお互いに逆方向にくねくねと横揺れするため、強固な建物にありがちな揺れ方はせず、振動の波に乗った液体のような動きになる。
 第四に、一方で、あまりにも各階が柔軟になりすぎるのを避けるために、大工たちは、とある独創的な解決法に行き着いた。これが心柱だ。見た目は、大きな耐力柱のようだが、実際にはこれは建物の重さをまったく支えていない。心柱は、まさに自由な状態で吊り下げられているだけなのだ。心柱は、大型の同調質量ダンパーの役割となって、地震の揺れを軽減する助けとなっている。各階の床が心柱にぶつかることで、崩壊するほどの横揺れを防ぎ、揺れもいくらか吸収している。言うなれば、基本的には、十分な質量のある不動の振り子であり、より軽い各階の床があまりに自由に横揺れしすぎないように歯止めをかけている。
現在でも、これと同じダンパー技術が使われているスカイツリーのほかに台北101(台北国際金融センター)は、92階から巨大な、730トン4階分の鋼鉄の振り子をぶら下げ、強風でビルが横揺れするのを防いでいる。ニューヨークのシティコープ・センターもまた、ハリケーンの際の揺れを防ぐのに、400トンのコンクリート・ブロックを使用している。

 

教科書から消える聖徳太子 歴史が英雄をつくる! 聖徳太子的人物の存在が・・・

 

聖徳太子から福沢諭吉へ

 聖徳太子の業績は、冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣などが上げられますが、歴史研究の発展により、実はこれらは、太子一人の実績ではないことが明らかになってきたようです。そこで教科書では、聖徳太子の表記を止め、厩戸王と表記するようになったようです。しかし、この時代の天皇の摂政として存在していたのは確かなようですが1万円札の肖像としての復帰は難しいかも知れません。

仏教による国づくりの象徴としての聖徳太子

 当時の日本が国づくりを進める中で、大陸の宗教や立法、身分制度を参考にしたのは間違いない。しかし、それは自然に入ってくるものではなく、明確な目的意識と行動を必要としたはずだ。それを取り入れた英雄こそ、聖徳太子的な人物だったのではないだろうか?(もし、ナポレオンが生まれてこなかったら、歴史は別のナポレオンを生み出した)

大工の神様 聖徳太子

 11月22日は「大工さんの日」です。11月が「技能尊重月間」、十一を合せると「建築士」の「士」の字になること。22日が聖徳太子の命日(622年2月22日)さらに11は二本の柱、二は土台と梁と見なして「大工さんの日」としたようです。 孟子の教えに「規矩準縄(きくじゅんじょう)」という言葉があります。物事や行動の基準、手本を正しくすることを意味するとのこと。 ここから発して大工の伝統技術に規矩術(きくじゅつ)というものがあり、大工の数学のようなもので、「規」とは「円を描く」、「矩」とは「方向、直角」、「準」とは「水平」、「縄」とは「垂直、鉛直」ということを意味し、家造りの最も基本となるキーワードです。更に、大工道具のことも指しているそうで、『規=定規』『矩=差し金』『準=水盛り』『縄=墨縄』となります。 この中の『矩=差し金』を日本に持ち込んだのが聖徳太子とのことです。 法隆寺のような建造物を初めて日本に作るためには、道具と技術の伝承は絶対的に必要だったことは間違いない。 道具は現物でよいが、技術はどうしたのか?聖徳太子は太子講といって、大工を集めて建築の講義のようなものをしていたそうです。 当時の政治家はテクノロジーの優れた伝承者でもあったようです。

地質時代 第12号 平成29年9月15日発行

住居の変遷から見る日本史

縄文時代の平和

 

 数年前、青森県を旅行した際、三内丸山遺跡を見学する機会があった。この遺跡は日本最大級の縄文集落跡で、今から5,500年~4,000年前のもので、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人や子供の墓、掘立柱建物跡などがあり、当時の集落の生活環境が具体的にわかる契機となった。特に私が感動したのは、墓と大型竪穴住居であった。墓は通路の両脇に2列に配置され、仲間にいつも見守られている風であった。大型竪穴住居はおそらく集会所であったようだ。内装も再現されていたが、身分の上下、貧富の差をまったく感じさせない。 そして何よりも、この集落が1,500年も続いたことである。よっぽど居心地がよかったのだろう。環境と共存し、共同体が機能し、近隣とも仲良くやっていたのだ ろう。

三内丸山遺跡 掘立柱建物

三内丸山遺跡 大型竪穴住居

大型竪穴住居の内部

 

戦う弥生人

 弥生時代の遺跡として有名なのが佐賀県の吉野ヶ里遺跡である。この時代の集落の特徴は、環濠集落と呼ばれ濠や塀で何重にも防御され、日本には400以上の遺跡が確認されている。中でも吉野ヶ里遺跡は、700年続いた弥生時代(紀元前5世紀から紀元3世紀)のすべての遺構・遺物が発見されており、弥生時代の象徴とも言える遺跡だ。

 弥生時代前期(BC5世紀~BC2世紀)吉野ヶ里一帯に分散的に「ムラ」が誕生、その一部に環濠を持った集落が出現し、「ムラ」から「クニ」への発展の兆しが見えてくる。
弥生時代中期(BC2世紀~AC1世紀)大きな外環濠ができ、首長を祀る「墳丘墓」や「甕棺墓地」が見られ「争い」の激化が見られる。
弥生時代後期(1世紀~3世紀)国内最大級の環濠集落へ発展。特に環濠に内郭と外郭が生まれ身分による住み分けが定着した。権力の強化に伴い建物の大型化が進んだ。

吉野ヶ里遺跡 環濠集落

吉野ヶ里遺跡 首領を中心にした会合

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良時代の官僚と都市計画

 1986年奈良市街の一角から長屋王(676年~729年)の広大な邸宅跡が発見された。敷地は67,000平米。内部も板塀で区画され、大勢の使用人や職人も住み込んでいた。長屋王は左大臣で朝廷の最高機関の責任者であった。武士が生まれる前の時代、皇族出身の官僚が「クニ」を支配するために、厳格な身分制度と土地の区画と分割が重要だったようだ。他方、庶民は竪穴住居で暮らしていた。
 当時の人々の暮らしの有様を、万葉歌人のひとり山上憶良(660年~733年)は「貧窮問答歌」に詠んだ。
 フセイホのマゲイホの内に 直土に 藁解きて
 父母は 枕のほうに 妻子どもは 足の方に 囲み居て
 憂へ吟ひ
(地面に這いつくばるような粗末な家に、土の上に藁を敷いて家族が寝て居る様が物悲しい)
 山上憶良は、文学に造詣が深かった長屋王の屋敷に出入りしていた。貴族の住まいと庶民の住まいを目にした憶良だからこそ、詠んだ歌であった。
(日本住居史 小沢朝江、水沼淑子著 吉川弘文館参照)

長屋王邸宅の復元模型

平城京の土地区画は身分制と密接に結びついていた

 

 

 

大林組プロジェクトチーム(PT)による三内丸山遺跡の工学的分析

①人口の想定 : 常時住んでいた住民の人口を400~500人とした。大型建造物の建設を可能にするには、一人あたりの作業負担量を25~30キロとして、1回の仕事量 を6~7トンとすれば、実際の重労働に参加できる成人男性の数は200~280人となり、総人口はその倍になるという勘定だ。
②土木工事の想定復元 : 縄文時代の常識からすればケタ違いの土木作業の痕跡が幾つも認められる。一つは道路である。日本最初で最古の土木工事の施工例だ。 その施工の規模は以下のようになる。
A.盛り土の土量(平均値を採用) 1,600立方㍍
B.施工に必要な員数(モッコ)1,824人工+敷き均しと締め固め267人工 合計すると3,691人がこの施工に必要な延べ員数となる。
③建物の想定復元 :大型の掘立柱建物跡以外にも、三内丸山遺跡では多くの建物跡が発掘されている。多くは通常の竪穴式住居跡だが、その中に、倉庫と見られる高床式の建物や、超大型の竪穴式大型住居跡(通称ロングハウスと呼ばれる。)も見つかっている。偉容とよぶにふさわしい姿である。それは大変な手間と計画を要求された施工であっただろうと思わせられる。 当時、これだけのものをつくることができたばかりでなく、これだけのものを必要とした人々、あるいはその生活を営んだ人々であったことを思うと、ここでも驚きを禁じ得ない。
《掘立柱建物の復元》(1面写真参照)
三内丸山遺跡における建造物で全国の注目を集めたのは、何と言っても掘立柱建物である。全てクリの木であった事も判明している。
①柱の材質(クリ)による高さの想定。青森周辺で高さ20㍍のクリの木が発見された。 縄文時代には、当然それ以上のクリの木が原生していたものと考えられる。
②柱穴を土質工学の見地から考察する。 発見された6つの柱穴は、正確に4.2㍍の間隔をとり2列に並んでいる。深さは2~2.5㍍も掘り下げられており、6つのうち4つに木柱根が残っていた。木柱根は0.9~1㍍程の径で最大のものは103cmであった。高さは50~65㌢ほどが残っていた。現在までに判明している考古学的な 事実は次の2点である。
●クリの木の立て方はそれぞれが、列の内側へ角度2度ほど傾いており、計画的かつ意図的なものであって、柱を立てる際に重心が穴の中心より外側へ来るようずらして設置されていた。
●柱を立てる際に、砂と粘土質土を交互に入れて突き固める技法がとられており、これによって柱がより固定されるようになっていた。PTは、柱が建っていた穴の底を同じ位置の(深度の)、他の外周部の土と柱の底の土を、以下の調査で比較を行い、穴底の土にどれだけの圧力が掛かっていたかを調べれば、5000年前当時の柱の重量が解明できると仮定した。
1.地層の確認
2.標準貫入試験(N値)
3.物理特性(比重、含水状態、粒土分析)
4.力学特性(一軸圧縮の強さ、粘着力、圧密先行応力)
その結果、1平方㍍に16㌧の荷重が加わっていたようだ。
ここから導き出される柱の木の長さは、最小14㍍、最大23㍍という事になる。しかし、柱は先端部分になるに従って次第に細くなっていく ものであり、それを勘案すると柱の高さは、実に25㍍に達する可能性がある。
PTでは、これが単独で建っていた柱の可能性を検証しているが、結論から言うと単独の柱としては不安定で建造物として成り立たない、何らかの構造をもった建造物としての検証に進む。諸検証の結果、復元する建物の規模は、軒高が14㍍、最高部(屋根頂部)で17㍍、そして木柱の長さは掘立て部位も含めて16.5㍍となった。建物の総重量は約71㌧の規模となり、この構造だと荷重は1平方㍍あたり16㌧ちかくになり、地盤調査の結果とも整合性がとれる。
また柱の高さが約17㍍とすると風に対する抵抗の面からも一番都合がいい。この三内丸山遺跡のある津軽地方に吹く季節風は、ほぼ一年中、津軽半島と八甲田山系の間を南南西に吹いており、この大型掘立柱建物も長軸を南西-北東方向に向けており、風に対する抵抗が一番少なくすむように建てられている。 古代縄文の人々は、風向きや風力に対しての妥当な高さについて知識を持っていた。また4本柱より6本柱の方が、風に対するたわみが少なくより堅固に建っている事ができる。
いずれにせよ、今回大林組PTが行った三内丸山遺跡の復元作業は、「建築学」という観点から試みられたものだけに、今までにない新しい多くの示唆を含んでいる。歴史学の発展に新たなアプローチが加わったと言っていいだろう。