2018年07月18日

広島市土石流災害の悲劇!

地質時代 第3号 2014年9月 一面  

 8月20日に発生した、広島市の土砂災害は、死者72名、行方不明者2名(8月29日現在)という悲劇をもたらしました。 国土交通省の調べでは、全国に土砂災害の危険個所に指定されているのは525,307個所にものぼるとのこと。今回被災した地区は警戒区域どころか危険個所の指定もなかった。行政は危険性を認識しつつも、対策工事を行う義務の発生に逡巡があったようだ。また、警戒個所としてハザードマップにのれば、不動産価格に影響があることもあり、住民説明での確認も必要になってくる。安全安心よりも経済を優先するこのような経済的背景が、被害を大きくした原因ではなかったのか?

 上2枚の写真は、グーグルストリートヴューで見た安佐南区八木3丁目付近の土石流前の町並み。奥の山並みが不気味に住宅地を睥睨しているが、日本のどこにでもありそうな雰囲気。もう一枚は、なんと住宅新築中の工事現場。被災の有無は分らないが、丘陵地の危険地域であることはまちがいない。

 中の写真は、八木3丁目の被災状況。原形がまったくわからない。時速40kmで数千~十万トンの土砂と水と材木と岩石が襲い掛かってきた。 

 

 

 

 

 

下の写真は、安佐南区の八木地区と緑井地区の空中写真。阿武山に裾野から這い登るように宅地開発が進んでいることがわかる。土肌が出ているところが今回、土砂崩れを起こした個所。こうして、高い視点でみると如何に危険であったのか、いや、現在も危険であることに戦慄を覚える。 われわれ地質調査業者の責任は、このような高い視点で危険を喚起し続けることかもしれない。 ご冥福をお祈りいたします。

江戸城無血開城の歴史的経済的社会的背景

地質時代 第2号 2014年8月 二面

大政奉還と勝・西郷会談


  明治維新は、古今東西の革命の例にもれず戦争の産物でした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、野洲梁田の戦い、市川・船橋戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、東北戦争、函館戦争など無数の戦いが全国で戦われた。前後して1868年幕府の血を求める官軍の行進が江戸に向かった。
 当時の江戸は100万都市であり、日本中のモノの基地であった。江戸との物流が地方の生命線でもあった。しかし、日本列島の地形は、山と谷、川と海に分断させられ、その結果幾多の藩が生まれ、戦国時代には覇権を争った。江戸時代になって、農業生産を飛躍的に発展させる土木工事が行われ、農民たちは協力して土木工事に参加し、農村での共同体意識は格段に高まっていった。
 さらに、広重の東海道五三次をみるとそこには各宿場の風景と生き生きとした人々の姿がすべての絵に描かれている。出発の日本橋では様々な職業の人が橋を覆い隠すよう歩いている。終点の京都三条大橋でも同様である。生産力の発展が日本の地形的分断性を物流によって克服させ、江戸を単なる幕府の居城から日本の中心という意識がすべての日本人に共有されていたことが伺える。そのような意識が勝と西郷をとらえ、江戸の壊滅は地方の壊滅に繋がると判断し、無血開城に繋がったように思う。

広重 東海道五十三次 日本橋

広重 東海道五十三次 京都三条大橋

26歳の若き土木技術者が80年前に創造したドーム型防波堤

地質時代 第2号 2014年8月 一面

稚内港北防波堤ドーム

1936年(昭和11年)稚内築港事務所の26歳の技手、土谷実(1904~1997)が設計。稚内特有の強風とサハリンからの高波を防ぐために考案された、庇の付いた防波堤です。土谷は築港事務所の先輩技術者である平尾俊雄から指導を受け、平尾がフリーハンドで描いたものを具体化しました。 事実の把握、そして歴史に学べ  この構造物は、見栄や利権や営利からではなく、強風や高波から人々を守る目的で設計されました。  平尾はこの北防波堤設計にあたり、土谷に次のことを命じました。波の高さと基礎となるべき当時は主流の木杭の腐食調査です。その結果、木杭は虫に食われ役に立たないこと、高波の高さは24尺(7.27m)を優に超えることが判明しました。そこで、平尾は防波堤に天蓋を設け、コンクリート杭を使う決断をしました。全体の形状は越波の観察からイメージしたものです。  土谷は途方に暮れました。いまだかつて経験したことのない設計でした。彼が採用したのは、彼が経験したコンクリートアーチ橋とギリシャ・ローマ建築の資料でした。「歴史に学べ」という格言の重さを再認識しました。  

事実の把握、そして歴史に学べ  

 この構造物は、見栄や利権や営利からではなく、強風や高波から人々を守る目的で設計されました。  平尾はこの北防波堤設計にあたり、土谷に次のことを命じました。波の高さと基礎となるべき当時は主流の木杭の腐食調査です。その結果、木杭は虫に食われ役に立たないこと、高波の高さは24尺(7.27m)を優に超えることが判明しました。そこで、平尾は防波堤に天蓋を設け、コンクリート杭を使う決断をしました。全体の形状は越波の観察からイメージしたものです。  土谷は途方に暮れました。いまだかつて経験したことのない設計でした。彼が採用したのは、彼が経験したコンクリートアーチ橋とギリシャ・ローマ建築の資料でした。「歴史に学べ」という格言の重さを再認識しました。  

利根川東遷は、大穀倉地帯をもたらした!

地質時代 第1号 2014年7月 二面

利根川のスペック

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

約1000年前の関東平野の想像図

 

洪水の歴史

858 天安2年武蔵の国に大洪水あり。

1194 建久5年11月2日頼朝太田庄(現在吉川附近)の堤防を修埋し利根川沿岸の荒地を開墾。

1201 正治3年8月関東一帯大暴風雨、北暮地方大津波死者一千余人。

1337 正元2年2月5日尊氏一色大興寺入道範行に命し浦和の調神社を造営させ社額として五ケ村 を寄進す。

1540 天文9年8月武相地方に大暴風雨あり。

1592 天正20年利根川改修治水工事開始特に中条村の築堤川保村の会川開削など行なわる。

1614 慶長19年1月代官伊奈忠政北葛二合半領に条例を出して開墾を奨励す。

1632 寛永10年比企東辺の荒川大改修。北埼に流れていた河流をせき止め吉見領内で和田、吉野、 南川を合流させる。

1640 寛永17年庄内領小島庄左衛門は郡代伊奈忠次に計り関宿より宝珠花金杉に至る新水路を開 く。

1654 承慶3年6月川越藩主松半信綱の家臣安松金右衛門の設計監督の下に玉川上水完工次いで 野火止用水が引かる。

1717 享保2年7月関東一円大風雨あり洪水となる。北葛二合半領松伏領水害はなはだし、江戸幕 府は災民二千五百人を救助す。

1728 享保13年9月関東一円に大暴風雨あり各所に洪水起こる。

1732 享保17年4月関東一円大凶作米価暴騰餓死する者多し。 秩父の宮前佐右衛門穀物を放出して救助す。

1737 元文2年利根用大洪水。

1738 元文3年7月洪水。

1742 寛保2年8月関東一円暴風雨にて荒川、利根川はんらんし、かつてなき大洪水となる。

1749 寛延2年8月洪水、千住堤、利根川堤決壌。

1771 明和8年8月大洪水。

1772 安永元年8月関東奥羽地方に大暴風雨襲来、権現堂川の堤防ついに決壊す。

1780 安永9年利根川大洪水。

1782 天明2年6月供水の為代用水路砂埋多し、7月大地震。

1786 天明6年7月関東一円大洪水、利根川、荒川はんらん各所堤防決壊し特に粟橋、岩槻、羽 生、草加地区の被害甚大。

1791 寛政2年8月関東大風雨、諸河川大はんらんし荒川堤防決壊す。

1802 享和2年7月洪水。

1823 文政6年5月洪水の為熊谷堤決壊。

1833 天保4年8月開東一日大洪水となり農作物被害甚大米価高騰。

1846 弘化3年大洪水。

1859 安政6年7月武蔵大暴風雨。 熊谷堤決壊。 利根用、荒川、神流川大はんらんし堤防決壊人家流出人畜の死傷甚大。

1865 慶応元年6月洪水。

1869 明治2年9月大宮県を浦和県と改称県庁舎を浦和におく。

1881 明治14年見沼代用水路埼玉県直営許可さる。

1882 明治15年大暴風雨。 利根川、渡良瀬川はんらん、北埼川辺、利根の二村浸水。

1886 明治19年7月東京方面よりコレラ本県に侵入、9月に至りようやく終息す。

1890 明治23年8月県下一円長期にわたり、りん(霖)雨続きついに大水害。

1898 明治31年9月大洪水の為八間堤下、小林・栢間両村内大騒擾、憲兵出動。被害町村 316、死者16、堤防決壊農作物冠水腐蝕し被害甚大。

1907 明治40年8月県下大暴風雨襲来大洪水となり利根・荒川堤防決壊農作物被害甚大。

1910 明治43年8月連日の豪雨にて利根・荒川の堤防決壊大洪水となり被害甚大、死者224 名、家屋流水1621戸、橋梁の流出百、道路決壊200、山崩870ヶ所。 9月15日埼玉治水会創設さる。

1932 昭和7年11月中仙道戸田橋かけ替え工事完工式挙行。この年中瀬橋、治水橋いづれも完工。

1935 昭和10年9月洪氷の為水路堤防の被害甚大。

1938 昭和13年9月大雨続き荒川堤防決壊。

1948 昭和22年9月キヤスリン台風襲来空前の大洪水となり、利根川東村の堤防決壊のため大 浸水、美田一朝にして泥土と化し損害百億に及ぶ。

1949 昭和23年9月アイオン台風による洪水の為水路堤防の被害甚大。

1957 昭和33年8月台風17号和歌山県に上陸、本県農作物158800000円相当の被害、川口市芝 川がはんらん5000戸浸水、奥秩父でも650戸孤立、見沼用水決壊、戸田、大宮に自衛隊出動。

家康の大土木工事が関東平野を作り、江戸260年の土台を作った!

地質時代 第1号 2014年7月 一面

 

利根川東遷

 江戸湾に注いでいた利根川の流路が現在の形になったのは、近世初頭の約60年間(1594年~1654年)にわたって行われた利根川東遷と呼ばれる改修工事の結果です。その目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を促進すること。舟運を開いて、東北と関東との輸送体系を確立することにありました。この工事によって、現在の霞ヶ浦は、川が運んできた土砂のために河口部分がせき止められ大きな湖となりました。現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。   江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。  江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。その治水と開拓の統括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。   その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り、小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。  部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。(輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。

広重の江戸百景、三ノ輪、三河島あたりは丹頂鶴が遊ぶ湿地帯だった

関東平野の南北に流れていた利根川を銚子に引き込んで、堆積した土砂によって霞ヶ浦が出来上がった