2019年02月05日

住居の変遷から見る日本史

 

 

縄文時代の平和

 数年前、青森県を旅行した際、三内丸山遺跡を見学する機会があった。この遺跡は日本最大級の縄文集落跡で、今から5,500年~4,000年前のもので、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人や子供の墓、掘立柱建物跡などがあり、当時の集落の生活環境が具体的にわかる契機となった。特に私が感動したのは、墓と大型竪穴住居であった。墓は通路の両脇に2列に配置され、仲間にいつも見守られている風であった。大型竪穴住居はおそらく集会所であったようだ。内装も再現されていたが、身分の上下、貧富の差をまったく感じさせない。 そして何よりも、この集落が1,500年も続いたことである。よっぽど居心地がよかったのだろう。環境と共存し、共同体が機能し、近隣とも仲良くやっていたのだろう。

 

 

 

 

 

戦う弥生人  

 弥生時代の遺跡として有名なのが佐賀県の吉野ヶ里遺跡である。この時代の集落の特徴は、環濠集落と呼ばれ濠や塀で何重にも防御され、日本には400以上の遺跡が確認されている。中でも吉野ヶ里遺跡は、700年続いた弥生時代(紀元前5世紀から紀元3世紀)のすべての遺構・遺物が発見されており、弥生時代の象徴とも言える遺跡だ。  弥生時代前期(BC5世紀~BC2世紀)吉野ヶ里一帯に分散的に「ムラ」が誕生、その一部に環濠を持った集落が出現し、「ムラ」から「クニ」への発展の兆しが見えてくる。 弥生時代中期(BC2世紀~AC1世紀)大きな外環濠ができ、首長を祀る「墳丘墓」や「甕棺墓地」が見られ「争い」の激化が見られる。 弥生時代後期(1世紀~3世紀)国内最大級の環濠集落へ発展。特に環濠に内郭と外郭が生まれ身分による住み分けが定着した。権力の強化に伴い建物の大型化が進んだ。

奈良時代の官僚と都市計画  

 1986年奈良市街の一角から長屋王(676年~729年)の広大な邸宅跡が発見された。敷地は67,000平米。内部も板塀で区画され、大勢の使用人や職人も住み込んでいた。長屋王は左大臣で朝廷の最高機関の責任者であった。武士が生まれる前の時代、皇族出身の官僚が「クニ」を支配するために、厳格な身分制度と土地の区画と分割が重要だったようだ。他方、庶民は竪穴住居で暮らしていた。  当時の人々の暮らしの有様を、万葉歌人のひとり山上憶良(660年~733年)は「貧窮問答歌」に詠んだ。  フセイホのマゲイホの内に 直土に 藁解きて  父母は 枕のほうに 妻子どもは 足の方に 囲み居て  憂へ吟ひ (地面に這いつくばるような粗末な家に、土の上に藁を敷いて家族が寝て居る様が物悲しい)  山上憶良は、文学に造詣が深かった長屋王の屋敷に出入りしていた。貴族の住まいと庶民の住まいを目にした憶良だからこそ、詠んだ歌であった。 (日本住居史 小沢朝江、水沼淑子著 吉川弘文館参照)

井戸の歴史を探る

平成29年8月15日発行 地質時代第11号 2面

 最近、江戸川区役所から防災用井戸を落札することができた。そこで、井戸の歴史を調べてみた。

  世界最古の井戸は、アメリカ・ニューメキシコ州のクローヴィス遺跡にあるもので、紀元前1万1500年ごろ、直径は60cm、深さは1.4m。クローヴィス文化は石期(旧石器時代に相当)、狩猟と採集にたよる生活で、パレオ・インディアンと呼ばれた。  

 日本最古の井戸は、鹿児島県にある玉乃井。神武天皇の祖父山幸彦が豊玉姫と出会った場所がこの井戸らしい。しかし、神話に関しては、出雲地方も黙っていない。大国主大神が八上姫に産ませた御子に産湯をさせるため三つの井戸(生井、福井、綱長井)を掘った。 二つの神話の共通点は、男女の出会いの場=生命の根源が井戸という場所にふさわしいということか。

  愛媛県西条市の自噴井戸 愛媛県西条市のHPに「水の歴史館」がある。これは、西条市が豊かな水環境を持ち、この水の文化を大切にしていることが伺える。西条市では江戸時代後期から「ぬきうち」工事が盛んに行われている。その代表的工法が「金棒掘り」で十字に組んだ丸太棒を万力のような金具で金棒に接続し、13~14人ぐらいで所定の高さまで持ち上げては落とすという掘削方法(金棒を使った人力による肩掘り)だった。 西条市内には、広範囲に地下水の自噴井があり、これらは「うちぬき」と呼ばれており、その数は約3,000本といわれている。  その昔、人力により鉄棒を地面に打ち込み、その中へくり抜いた竹を入れ、自噴する水(地下水)を確保した。この工法は、江戸時代の中頃から昭和20年頃まで受け継がれてきました。「うちぬき」の名の由来である。  現在は、鉄パイプの先端を加工し、根元に孔を開けたものをコンプレッサーによるエアーハンマーを使用して、地下水層まで打ち込み、地下水を取水している。  「うちぬき」の一日の自噴量は約9万m3におよび、四季を通じて温度変化の少ない水は生活用水、農業用水、工業用水に広く利用されている。この「うちぬき」は、名水百選に選定されている。

治水の神様 兎王と田中丘隅

平成29年8月15日発行 地質時代第11号 1面

 

 異常気象による局地的豪雨や台風の頻発により、日本の土木事業、なかでも治水事業の重要性がますます増してきている。人類の歴史は自然との闘いと共存であった。それは、中国の神話時代(堯、舜など)の逸話の中に現れている。
禹王の伝説
 禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。
舜は、名は文命、姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成した。
 時が過ぎ、紀元前4世紀ころ活躍した孟子は、楊朱(儒家や墨家に対抗した個人主義的思想家)という人物を批判して「楊朱という奴は、すねの毛を一本抜けば天下が救われるという場合でも、その毛一本さえ抜かない」と言った。その意味は、楊朱は自分のことしか考えない奴だ、ということだ。これは、禹が治水のため泥の中を這い回った結果、すねの毛が全部抜け落ちたという話が前提になっている。
田中丘偶の業績
 郷土歴史家の大脇良夫氏の調査では、日本全国22箇所に中国古代の伝説の王朝、夏(紀元前2100年~1600年ごろ)の開祖禹王の名が記された治水碑及び地名があるという。その中に、神奈川県酒匂川の治水神として、禹王が祀られている。南足柄市大口の福沢神社に文命東堤碑と文命宮が地元有志の手によって守られている。この文命宮を作ったのが田中丘偶(1662~1730)であった。
田中丘偶は今のあきる野市に商人の子として誕生、22歳の時、東海道の宿場のひとつ・川崎宿で下本陣をつとめていた田中兵庫(たなかひょうご)の娘むことなり、45歳で田中家を相続。六郷の渡しの独占権を獲得するなど、財政難だった川崎宿をみごとに再建させた兵庫が、河川土木の勉強を始めたのは50歳を過ぎてから。江戸時代の有名な学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)に学び、民衆の視点で治水などについて意見した「民間省要(みんかんせいよう)」が8代将軍吉宗に認められ、幕府の治水事業に携わるようになったのは61歳の時だった。
 丘隅は、享保9(1724)年から多摩川下流右岸の大丸用水と稲毛川崎二ケ領用水の改修、下流右岸の小杉の瀬替え(蛇行部のショートカット)、享保14(1729)年からは下流の連続堤の築堤を行い、「丘隅をして多摩川流という河川土木技術を起した」(「新多摩川誌」)と言われるほど、全国の河川土木技術に大きな影響を与えた。
 丘隅の最後の仕事となったのが現在の川崎区旭町あたりから大師河原までの多摩川下流右岸の堤防改修工事。この工事によって、多摩川の下流部の連続堤が完成したものと見られ、今も多摩川の下流部にえんえんと続く堤防の基礎がつくられた。この田中丘偶の業績を見るとき、その根底には治水事業によって民を守った禹王への崇拝が見て取れる。つまりは禹王と孟子の思想が田中丘偶の思想になり、この思想が物質的な力となって丘偶をしてこの治水事業を動かしたのではないだろうか?

九州北部豪雨による土砂災害

平成29年7月15日発行 地質時代第10号 1面

異常気象が地形を変える  

 梅雨前線や台風第3号の影響により、九州北部地方を中心に局地的に猛烈な雨が降り、大雨となった。特に、7月5日から6日にかけては、対馬海峡付近に停滞した梅雨前線に向かって暖かく非常に湿った空気が流れ込んだ影響で、九州北部地方で記録的な大雨となった。これまでの1時間の最大雨量は、福岡県朝倉(あさくら)で129.5ミリ、長崎県芦辺(あしべ)で93.5ミリ、高知県大栃(おおどち)と大分県日田(ひた)で87.5ミリを観測するなど猛烈な雨となったところがある。これまでの24時間の最大雨量は、福岡県朝倉で545.5ミリ、長崎県芦辺で432.5ミリ、大分県日田で370.0ミリとなるなど、九州北部地方では350ミリを超える記録的な大雨となっている地域がある。 この豪雨の影響で山間部の急斜面が崩れ、大量の土砂と立木を下流部に押し流し、死者32名(7月15日現在)を超える大災害となってしまった。これは、局地的に大雨を降らす地球温暖化が引き金になっていることは間違いない。

世界最大の地滑り事故は地質技術者の失敗から  

 1960年、イタリア北東部のバイオント川の渓谷に262mの提高のダムが建設された。貯水直後から地滑りが頻発するようになり、ついに1963年10月9日大規模な地滑りが発生した。貯水湖になだれ込んだ土砂に押流され水が津波となってダム下流の集落に壊滅的被害(死者2500人)をもたらした。2008年ユネスコは地球科学の理解が重要であることを示す『五つの教訓と五つの朗報』の教訓の筆頭に「技術者と地質学者の失敗」によって引き起こされた事例としてこのバイオントダム災害をあげ、山腹の地質に対する適切な理解があれば防ぎえたとした。ダムと豪雨では経緯はまったく違うが、山腹の地質的な理解については同じ問題をはらんでいて、地球温暖化によるゲリラ豪雨と日本の地形的特性を理解し、適切な砂防対策が求められる。あらゆる土砂災害の土台には、地質に対する科学的知識と責任感が何よりも求められることを教えている。

砂防の歴史  

 万葉集の時代、藤原宮造営時(676年~704年)に社寺の建築のため田上山(滋賀県大津市)等から良材を伐採した様子が万葉集に歌われている。 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ その後、山腹の荒廃が深刻化したと思われる。  明治維新後、荒廃した山腹を改良するために、藩政時代の技術革新をはかるためオランダを中心に外国人技術者が招聘された。なかでも明治6年(1873年)に来日したヨハネス・デレ-ケは、17種の工法を案出するとともに、日本各地の流域を踏査し、30年の長きにわたり、わが国砂防工事の指導を行った。 ヨーロッパの砂防技術の導入により、内務省技師であった赤木正雄の手により更なる発展を遂げた。彼の設計した成願寺川の白岩砂防堰堤が有名である。  全国に52万5307箇所の土砂災害危険箇所があり(平成14年現在)、そのうち最も多いのは、広島県の3万1987箇所、ついで島根県、山口県、兵庫県と続き、大分県が1万9640箇所と5番目に多くなっている。

古代・中世の利根川と隅田川

平成29年6月6日発行 地質時代第9号 2面

 今の利根川は千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。古代・中世には、猿が又(葛飾区水元)、亀有付近で三川に分流して江戸湾(東京湾)に注いでいた。猿が又で東に分かれた流れは太井川に合流する。太井川は渡良瀬川の下流で、今の江戸川である。亀有でそのまま南下する川が中川であり、西へ分かれる川が隅田川(古隅田川)だった。この古隅田川は消滅したが、今の足立区と葛飾区の区境線に沿うようにして流れ、鐘ヶ淵(墨田5丁目)のあたりで入間川に合流した。埼玉県飯能市に源を発する入間川の流路が今の隅田川である。  荒川もかつて埼玉県岩槻市付近で利根川に合流していた。1629年、荒川の河道を入間川に移した。入間川に荒川が合流する川越市古谷から下流も荒川に呼ぶようになった。明治44年、洪水対策のため北区岩淵で東に分流させる工事が始まり、昭和5年に完成した。これが荒川放水路であり、今の荒川である。