2019年02月22日

永代橋落ちた 永代橋に刻まれた歴史

2018年3月15日発行 地質時代第18号 2面

 

現在の永代橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忠臣蔵の橋  

1698年8月、五代将軍綱吉の50歳の誕生日を祝し、現在より100m上流に作られた。監督は、関東郡代、伊奈忠順があたった。資材は、上野寛永寺造営の際の余材を使ったとされる。長さ200m幅6m、橋脚は満潮時でも3m以上あった。1702年12月赤穂浪士一行が吉良上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺に向かった。

忠臣蔵当時の永代橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲劇の橋

1719年幕府財政窮地に伴い廃橋を決めるが町民衆の嘆願により橋梁維持の経費を町方ですべて負担することで存続を許された。しかし、1804年9月、富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず落橋。1400人の死傷者を出す史上最悪の事故となった。  永代と かけたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

永代橋落ちた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本発の鉄橋  

1897年(明治30年)道路橋としては日本初の鋼鉄製のトラス橋(部材を三角形に組む)が架橋。1904年には路面電車も敷設された。しかし、橋底には木材が使用されたため、関東大震災の時炎上、避難民に多くの焼死者を出した。

日本初の鉄橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帝都復興事業一号の橋

 関東大震災によって破壊された都市を再興するにあたり、隅田川にかかる6橋(相生、永代、清洲、蔵前、駒形、言問)の設計思想で大きく意見が分かれた。建築系技術者からは、実用物たる橋に美術品のごとき造形意図を持ち込むべきではなく6橋同一形状で統一すべきという意見が支配的だった。これに対し、復興局土木部長の太田圓三と橋梁課長の田中豊の二人は異なる考えを実践していく。震災復興事業の華』と謳われた清洲橋に対し、『帝都東京の門』と言われたこの橋は、ドイツのルーデンドルフ鉄道橋(映画のレマゲン鉄橋)をモデルにした。現在、勝鬨橋、清洲橋と共に国の重要文化財に指定されている。

モデルとなった、第二次大戦ライン川最後の橋。レマゲン鉄橋をめぐり独軍は米軍を引寄せ破壊する予定だった(映画にもなった)

災害が炙り出す共同体

2018年3月15日発行 地質時代第18号 1面

 

目に見えない財産

3月11日、東日本大震災から7年目を迎え、ニュースで沢山の特集が組まれた。家は復旧できても、目に見えない『ご近所付合い』の絆がなくなったことへの喪失感ははかりしれない。人は家がなくても生きていけるが、共同体がなくなると生きていけない生き物なのだろう。今後、日本は「首都直下型地震」はじめ各地で巨大地震が確実に起こると見られている。そのためのハードな防災対策の必要性は当然ですが、復興にあたり地域の人間関係という目に見えない財産を守ることも一体に考える必要があります。

『方丈記』の世界観

長明が隠遁した方丈(3m四方)のあばら家の復元 下鴨神社」

 

『方丈記』は1212年頃、鴨長明によって完成された随筆集ですが、平安時代末期から鎌倉時代初期の出来事が取り上げられている。その内容は、当時の災害と人間の記録でもあった。  「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」  このフレーズは、どこかで聞いたことがある。『方丈記』は都を襲った「安元の大火」1177年、「治承の辻風(竜巻)」1180年、福原遷都による混乱(1180年)、養和の大飢饉(1181年から82年)、元暦の大地震(1185年)の数々の災難を経験した長明がこの世の無情を著した。その歴史的背景には、貴族社会から武家社会にむけた混乱とそれを宗教的に結びつけた「末法思想」があった。 ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。玉を敷きつめたような都の中で、棟を並べ、屋根の高さを競っている、身分の高い人や低い人の住まいは、時代を経てもなくならないもののようだが、これはほんとうかと調べてみると、昔からあったままの家はむしろ稀だ。あるものは去年焼けて今年作ったものだ。またあるものは大きな家が衰えて、小さな家となっている。朝にどこかでだれかが死ぬかと思えば、夕方にはどこかでだれかが生まれるというこの世のすがたは、ちょうど水の泡とよく似ている。一時の仮の宿に過ぎない家を、だれのために苦労して造り、何のために目先を楽しませて飾るのか。その主人と住まいとが、無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花と、その花につく露との関係と変わらない。あるときは露が落ちてしまっても花は咲き残る。残るといっても朝日のころには枯れてしまう。あるときは花が先にしぼんで露はなお消えないでいる。消えないといっても夕方を待つことはない。

無常への絶望か、価値観の転換か  

鴨長明の時代と現代は結構似ている。栄華を誇った東芝の挫折、「官庁の中の官庁」財務局の文書改ざんなど政治は乱れ、企業の生産第一主義はいたるところで破綻、人々の協力と共同による心の豊かさを求める時代を求め動いている。  災害が突きつける被害や傷は、流れる川のように避けることはできない。豪華な家が時と共に必ず廃れていくようなものだ。物質的な豊かさは儚く、頼りにならない。本当に価値あるものは、人と人とのつながり、栄華を競い合うのではなく貧しくても、共に助け合う心の豊かさこそ本当に価値あるものだ、と教えているように思う。

リサイクル都市 江戸のライフスタイル

2018年2月15日 地質時代第17号 2面

 

日々の食事は旬のものだけ

江戸の食生活は基本的に一汁一菜。米は精米したものを食べていた。魚は日本橋の魚河岸で、江戸湾で採れたもの、野菜は人形町の八百屋で、近郊で採れた旬の野菜を食べていた。下肥を使っていたので回虫の卵はあったが、香りと味は調味料を必要としないほど。また、精米なのでビタミン欠乏症になり脚気多く〈江戸患い〉と呼ばれた。

衣服はリサイクル時代

 今でも、日本橋堀留町や大伝馬、小伝馬町界隈は繊維業の店が多い。これは、江戸開府当時、徳川家康が、日本橋富沢町を古着屋の町として免許を与えたことに由来する。日本で古着が主流でなくなったのは1900年代豊田式自動織機が発明されてからだ。ファッション感覚は着物という形の中で色と模様でセンスを競っていた。紬、縞、格子、小紋などの幾何学模様が粋とされていました。色も西洋の原色ではなくデリケートな色合いが流行した。特に茶系統は人気役者の名前から路考茶、梅幸茶、芝翫茶、璃寛茶などがあった。

市松模様の着物

江戸とパリの上下水道比較

江戸は埋立地のため井戸は飲料に適さなかった。そこで地下に木の樋を埋め水道を作っていた。この配水管の総延長は150kmに及んでいた。この時代の水道としては世界最大の給水システムだった。下水はどうか?パリでは下水道を作りセーヌ川に垂れ流していた。市民はそのセーヌの水を飲んでいた。江戸には下水システムはなかった。その代わり農家の人が来て便所から汲み取りを行い、畑に撒いていた。長屋は共同便所なので大家に権利があり有料で、年間1両程度で売っていた。『店中の尻で大家は餅をつき』という川柳があったほどだった。また、表通りの商店より、裏長屋の職人のし尿のほうがよく効くので高かった。けちな商人より金銭に執着しない職人のほうが良いものを食べていたからだそうだ。ただ汚いものとして道やセーヌ川投げ捨てるパリよりも、資源としての価値を見出した江戸のシステムは実に先進的であった。

汲み取り風景

江戸上水システム

北陸豪雪 日本の積雪は世界一!!

2018年2月15日 地質時代第17号 1面

 

第10位:アメリカ、バッファロー市 年間降雪量240cm エリー湖の西、カナダとの国境沿いの都市。北極の気象パターンに近く、「湖水効果雪」という現象により積雪量が増大する。猛吹雪によって町全体が埋まってしまい、雪かき以外の活動はすべて停止する。  

第9位アメリカ、ロチェスター市 年間降雪量251cm オリタリオ湖の南に位置するロチェスターも「湖水効果雪」に影響される。1977年のグレート・ブリザード(時速96km)によって多くの死者が出た。  

第8位日本 秋田市 年間降雪量271cm 733年頃に築かれたと見られる城柵、秋田城を擁する秋田には、32万人以上の人々が暮らしている。1997年に中核市に指定された県庁所在地でもあるが、平均積雪量は1月137cm、2月107cmと紛れもない豪雪地帯だ。亜熱帯地域にほど近いことから大量の湿気がもたらされるため、降水量も多く、年間の66パーセントが雨か雪の日だ。

第7位カナダ、ザクネ市 年間降雪量312cm

第6位アメリカ シラキュース市 年間降雪量314cm

第5位カナダ ケベック・シティ 年間降雪量314cm

第4位カナダ セントジョンズ 年間積雪量332cm

第3位日本 富山市 年間降雪量363cm 立山黒部アルペンルートの名物はそびえ立つ雪の壁だ。富山市は富山県の県庁所在地であり、41.7万人が生活する。秋田と同じく、比較的穏やかな気候と湿度のお陰で、凄まじいほどの雪が降る。日本海に繋がる富山湾の側に位置するために、「湖水効果雪」にも似た積雪を見せる。

第2位日本 札幌市 年間降雪量485cm 本リスト中最大の都市。地球上で2番目の豪雪都市。

第1位日本 青森市 年間降雪量792cm 地球規模の豪雪地帯。八甲田山の高地の冷たい空気と青森湾、陸奥湾の水分が組合わさる結果だ。

宝暦治水工事の悲劇『孤愁の岸』

2018年1月15日発行 地質時代第16号 2面

 

杉本苑子「孤愁の岸」

「孤愁の岸」は、宝暦治水工事と呼ばれる江戸時代に木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川の治水工事を命じられた薩摩藩の激闘を描いた小説で、主人公は薩摩藩の工事責任者である家老平田靭負(ゆきえ)です。 宝暦治水工事は、1754年宝暦4年から5年にかけて、木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曾三川の洪水を防ぐために行われた治水工事です。 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。 1753年(宝暦3年)12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。  同年4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。幕府はさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。その結果、慣れない土地での過酷な労働の為、病死する人も続出した。 「孤愁の岸」では「屠腹した者50名、病死者202名」と書かれている。こうした非常な困難の中でも、薩摩藩士は、ひたすら辛抱し工事を続行した。そして、ついに工事開始の翌年宝暦5年5月にはすべて工事が完了した。工事の出来栄えは素晴らしく、工事検分にあたった幕府役人からは賞賛の声があがった。工事が終わった藩士たちは、薩摩または江戸に帰っていく。その早朝、平田靭負は、現地の総指揮所であった美濃大牧の役館で、割腹した。そして、「孤愁の岸」は、平田靭負の遺骸が、船に載せられ木曾川を下るところで終わる。 辞世の句「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」多大な犠牲への悔悟の情を隠しているように思う。

平田靭負(ゆきえ)

歴史を変えた大噴火

2018年1月15日発行 地質時代第16号 1面

 

 23日に噴火した群馬・長野県境の草津白根山の火口は、従来警戒を強めていた「湯釜」ではなく、気象庁が3000年間も噴火していないと見ていた2キロ南の「鏡池」付近だった。火山活動の事前の現象もなく、まさに寝耳に水の災害。自衛隊員一名が亡くなられたが、他の隊員を庇って噴石に当たったようです。ご冥福をお祈りすると同時に献身的な行動に敬意を表します。  

 火山噴火は大きな災害です。噴火によって歴史が変わった事実を調べてみました。

1.7万4千年前 インドネシア北スマトラ州 トバカルデラの世界最大級の大噴火 

 インド、パキスタン、中国にも火山灰が降り注いだ。グリーンランドの氷床コアからも検出。 寒冷化は6000年続き、ヴュルム氷期に突入した。この噴火と同時期に、ヒトDNAの多様性が著しく減少する「ボトルネック(遺伝子多様性減少)」が見られることから、この噴火で当時の人類の大半が死滅したという『トバ・カタストロフ理論』が生まれた。

 

 

2.紀元前1628年 ギリシャ エーゲ海キクラデス諸島南部サントリーニ島 海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)によって30m級の津波によってクレタ島で栄えたミノア文明が打撃を受け衰退の原因となった説がある。また、寒冷化によって中国の夏王朝滅亡の要因説もある。プラトンのアトランティス伝説のモデルとなった。

 

 

 

3.紀元79年 イタリア ヴェスヴィオ火山 麓の都市ポンペイ(人口2万人)が厚さ7mの軽石に埋没した。

 

 

 

 

4.紀元535年 クラカタウ(インドネシア) この巨大噴火による気候変動が、東ローマ帝国の衰退、ペストの蔓延、ゲルマン民族の大移動、マヤ文明の崩壊の発端となったとBBCのドキュメンタリーで放映された。

 

 

 

5.紀元1783年 ラキ火山(アイスランド) 噴火によって1億2千万トンの有毒な二酸化硫黄を含んだ火山灰がヨーロッパやアメリカ大陸を覆った。翌年には寒波が押し寄せフランスの植民地であったアメリカ南部が凍りついた。食料不足が深刻化し、フランス革命の原動力になったと言われている。

地質が主役の映画

2017年12月15日 地質時代 第15号 2面

 

「黒部の太陽」 1968年 監督 熊井啓 音楽 黛敏郎製作 

三船プロダクションと石原プローモーションそして宇野重吉の民藝の全面協力、人件費は500万円。 トンネル工事のシーンが多いが、再現セットが愛知県豊川市の熊谷組の工場内に作成された。出水を再現する420トンの水タンクもあった。出水事故があり、石原裕次郎他数人が負傷した。 この時の撮影は、切羽(トンネル掘削の最先端箇所)の奥から、多量の水が噴出する見せ場であった。水槽のゲートが開かれると、10秒で420トンの水が流れ出し、役者もスタッフも本気で逃げた。三船は、水が噴出する直前に、大声で「でかいぞ」と叫び、裕次郎らと走るが、そのときの必死の姿をカメラがとらえていたので、撮影は成功した。監督の熊井は、もし、三船が恐怖のあまり立ちすくんでいたら、撮影も失敗で、死傷者も出たかもしれないと回想している。大洪水の中でも仁王立ちとなって演技をした三船の姿が、30年以上たった今も瞼に焼き付いていると語った。

「日本沈没」 1973年 2006年 原作 小松左京

地球物理学者・田所雄介博士は、地震の観測データから日本列島に異変が起きているのを直感し、調査に乗り出す。深海調査艇「ケルマデック (Kermadec)」号の操艇者・小野寺俊夫、助手の幸長信彦助教授と共に小笠原諸島沖の日本海溝に潜った田所は海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見する。異変を確信した田所はデータを集め続け、一つの結論に達する。それは「日本列島は最悪の場合2年以内に、地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈没する」というものだった。 最初は半信半疑だった政府も紆余曲折の末、日本人を海外へ脱出させる「D計画」を立案・発動する。しかし、事態の推移は当初の田所の予想すら超えた速度で進行していた。各地で巨大地震が相次ぎ、休火山までが活動を始める。精鋭スタッフたちが死に物狂いでD計画を遂行し、日本人を続々と海外避難させる。一方、敢えて国内に留まり日本列島と運命を共にする道を選択する者もいた。 四国を皮切りに次々と列島は海中に没し、北関東が最後の大爆発を起こして日本列島は完全に消滅する。

「2012」 2009年 監督 ローランド・エメリッヒ 2009年

インドの科学者サトナムは、地球内部が加熱され流動化が進んでいることに気が付き、数年後に地球的規模の地殻変動により大破局が起きることを突き止める。科学顧問のエイドリアンから世界の終末を伝えられたアメリカ大統領のウィルソンは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、日本、カナダの首脳に事実を報告。先進国は極秘裏にチョーミン計画を実行し、世界各地の歴史的な美術品を後世に残すために、密かに偽物とすり替え運び出し始めた。やがて、先進国が極秘裏に進めていた「ノアの箱舟」計画こそが生存への唯一の道だと知った主人公らは、ノアの箱舟の建造地である中国に向かう。

世界最古の水道施設 エルサレム シロアム水路とビゼキアトンネル

2017年12月15日 地質時代第15号 1面

 

 トランプ大統領の首都移転宣言で大激震が起こったエルサレム。グーグルアースで覗くと、大きな川もなく岩盤質の地形になぜこんな宗教都市ができたのか調べてみた。  この地域は丘陵地帯で標高800mほど。雨季(冬)と乾季(夏)に別れ、年間降水量は600㎜程度の乾燥地帯。黄土色の荒野である。

 ここにキリスト教の『聖墳墓教会』=キリストが磔にされたゴルゴダの丘、ユダヤ教『嘆きの壁』=ローマ帝国に従属したユダヤのヘロデ王の神殿、イスラム教『岩のドーム』はムハンマドが立ち寄ったとされる岩が隣り合って存在している。  『旧約聖書』の『サムエル記』によれば、ユダヤのダビデ王はエルサレム攻撃の際「エプス人(先住民)を撃つものはすべて[ツィンノール]をもってせよ」と言ったと書かれている。これは、「ギボンの泉」と呼ばれる湧水で、今でも湧き出ている。この水源に至る地下トンネルから攻めあがったのかも知れない。カナン人は地下に隠した水源を要塞で覆って隠していた。その竪穴は発見者の名をとって「ウォレン・シャフト」と呼ばれている。  似たような場所がパレスチナ自治区にもあり「ギベオンの水槽」と呼ばれている。これは、粘土質の地盤に直径11m、深さ11mの穴を掘り、周りにらせん状の階段が作られている。  

 三代目ビゼキア王の時代、アッシリアが攻め込んできた。このアッシリアの脅威に対抗するため、ギホンの泉の水を、城内のシロアムの池まで引くトンネルを完成させた。ギホンの泉は、ダビデの町と向かい側のオリーブ山の間を分かつギドロンの谷にあり、その場所はダビデの町の崖下にあたる。当時、ギホンの泉からあふれ出る水は地表のシロアムの水路を流れてシロアムの池に流れ込んでいた。この水源を外敵から守るためにトンネルを掘りぬいたのである。 ヒゼキア王のトンネルは約2700 年前に建造された、現存する世界最古の水道施設の一つである。全長532m、勾配は0.4%、両側から掘りはじめ、北から1/3あたりで接合している。接合部では、両側から声を出しながら方向を調節したのか、坑道が左右にギザギザと屈曲している。このトンネルは現在も健在で、ギホンの泉は下流のシロアムの池に向って流れ続けている。

 この豊富な地下水なくしてエルサレムは歴史に刻まれる都市にはなりえなかった。日本人なら井戸の神様と称えるところだ。しかしフェニキア人の商才、古代ギリシャ哲学の一元論、エジプトの一神教が混ざり合い、古くはエジプトやローマ帝国、イスラム帝国に揉まれ、英国の三枚舌外交や米国のユダヤ資本(ロスチャイルドやゴールドマンサックス)に利用され続けるためには宗教を口実にしなければ存在できない都市がエルサレムなのだろう。

魅惑的な粘土の歴史と未来

2017年11月15日発行 地質時代 第14号 2面

 

●土偶と土器(粘土を支配) 日本最古の土偶は、約1万2000年前のものとされ、三重県松阪市で見つかりました。土器は、700~900℃の温度の野焼きで作りました。世界最古の土器は、今から約2万年前のものとされ、中国の洞窟遺跡で発見されました。

●粘土板(記

曜変天目茶碗(南宋12~13世紀)

300年分のレアアース泥が眠る南鳥島の海

録装置として) 3750年前のメソポタミアでは、粘土で作った粘土板に、楔形文字を刻み、銅の塊りを買った人が売った人に対して、その品質の悪さに「この商品は粗悪品過ぎるので、お金を返せ」との手紙であることが分かりました。

●陶器と磁器(芸術文化として) 陶器の原料は土器と同じ粘土で、窯で1100~1300℃の温度で焼いたもの。光を通すことはなく、水を吸い、厚手で重く、叩いたときは鈍い音がします。日本の伝統工芸を代表する陶器としては、瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波立杭焼、備前焼が知られ、これらは日本六古窯(ろっこよう)と呼ばれています。磁器は、粘土を含む陶石を砕いたものが用いられ、窯で1300℃程度の温度で焼いたものです。光を通すものが多く、水を吸いにくく、とても硬く、叩いたときは金属音がします。代表的は、伊万里焼、九谷焼などが知られています。

●レンガと瓦(建設資材として) 建設に使われているレンガや瓦も、粘土で作られています。レンガは、紀元前4000年~紀元前1000年のころは、粘土を乾かしただけの日干しレンガとして誕生。した。瓦の歴史は古く、日本には588年に、百済から仏教と共に伝来したと言われ、奈良県にある飛鳥寺で初めて使われたとされています。現存する日本最古の瓦は飛鳥時代のもので、元興寺の極楽坊本堂と禅室の屋根の瓦です。

●高レベル放射性廃棄物の地層処分(核のゴミ) 原発の使用済み放射性廃棄物の処分は、地下深い安定した地層に封じ込める地層処分が、最もよい方法されています。その際には、ガラスと一緒に固め、金属製の容器に入れ、その周辺を粘土で覆うという方法がとられる予定です。地上から300m以上の深い所に処分し、10万年以上にわたって人間社会から隔へだて、影響を与あたえないようにします。

●水素の製造(未来のクリーンエネルギー) 水素を製造する一つに、太陽光と水とセラミックス光触媒を使う方法があります。このセラミックス光触媒に粘土が使われています。

●有害物質の分解(汚染の除去) アロフェン粒子(粘土)と酸化チタンを混ぜ合わせて、有害物質を分解する技術が研究されています。

●皮膚の再生(安価な医療材料) スメクタイトと呼ばれる粘土鉱物を用いて皮膚を再生させる技術が研究されています。皮膚の主成分であるコラーゲンや血管の形成、細菌を吸着し、皮膚が硬くなることを防ぐ効果があるとのこと。

●夢の粘土(資源として) 現在、レアアースのほとんどは、中国で生産されています。ところが、2011年に、小笠原諸島にある南鳥島沖の排他的経済水域の海底で、レアアース泥が発見されました。推定される埋蔵量は中国の30倍で、日本が必要とする量の300年分以上とされています。レアアース泥は、水深5000mより深い海底にあるため、船からパイプを海底まで降ろし、空気を送って、戻ってくる空気と一緒に採取する方法が考えられています。

 

祝! 地球史にチバニアン当確!!

2017年11月15日発行 地質時代 第14号 1面

 

 地質というと、とかく地震や噴火などの負のイメージが強い中で、このニュースはなんとも明るいものです。これを発見した地質学者の熱意やその土台を築いた研究者たちの地道な積み重ねの賜物と思います。 地質学にはノーベル賞がないため『命名』こそ最高の賞かも知れません。これまで、あまりに学術的すぎていた地質区分が一挙に身近になった気がします。  今回は地質と人間の歴史について調べてみました。

① 石器時代:どこに行けば加工に適した石や土の産出場所等の最初の地質への認識が生まれた。

② 青銅器・鉄器時代:鉱石を利用した金属製道具の作成=鉱物の性質の把握と加工技術の確立。

③ 四大文明:ナイル川、チグリス川・ユーフラテス川、黄河、インダス川がもたらした肥沃な土壌により農耕が発展。土壌のもたらす恩恵の利用。

④ ギリシャ哲学:レウキッポス、デモクリトス、エピクロス、ルクレティウスなどの唯物論哲学が演繹的な自然科学の扉を押し開けた。

⑤ ローマ時代:ローマ帝国の拡大のなかで広範囲な自然に対する認識が深まった。プリニウスの「博物誌」、スイトラボーは火山による山岳成因説、川の侵食作用などを考察した。セネカは火山を地球内部の溶けた物質が地表に現れたものとした。哲学が帰納法的認識の背景にあった。

⑥ ルネッサンス期:レオナルド・ダ・ビンチは芸術家であると同時に自然科学でも優れた実績を残した。湾曲した川の両岸における流速の違いと堆積物の研究、礫や地層の研究を行った。アグリコラは「鉱山書」の中で、探鉱術、冶金術、鉱床、鉱脈、断層について記し、「鉱物学の父」と呼ばれている。地質の法則性の発見へ。

⑦ 産業革命期:デンマーク人のステノは化石の研究から地層の生成を考察し「層位学の父」と呼ばれた。ウエルナーの水成論による層序の統一性の発見、不整合を発見したハットン、英国の地質図を作った「層位学の父」スミスなど。地質学における進化論の確立。

⑧ 現代:「人新世(アントロポセン)」の誕生。これは地質調査の報告書に地質区分を載せていますが、現在の地質時代は、17,000年前にはじまった、新生代第四期完新世という括りになります。しかし、この時代はすでに終わり、人類の活動が火山の大噴火に匹敵する地質学的な変化を地球に刻み込んでいることを現す新造語です。(まだ正式には認められていませんが)これは、オゾンホール研究でノーベル賞を受賞した大気科学者パウル・クルッツエンが提唱したもの。この時代は1950年から始まるとのこと。