コラム

地質時代 第9号 平成29年6月発行

利根川東遷の舞台裏

関東の連れ小便
 1590年夏、秀吉は、一夜城で知られる小田原石垣山の山頂で放尿しながら、家康に関東八カ国(相模、武蔵、上野、下野、上総、安房、常陸)と家康所領(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)との国替えの話を持ちかけた。銀座の一等地からアマゾン奥地の交換を持ちかけられたようなものだった。当事、江戸城の東と南は海、西側は茫々たる萱原、北だけが緑色に盛り上がった台地であった。しかし、北側から何本もの川が流れ込み、江戸を泥地にしていた。秀吉としては家康の力を削ぐつもりだった。家康の家臣団はこぞって反対した。しかし、家康はこれを受けた。土木的は知識も少なかった時代、これは地政学的な戦略や何か展望を持っていたのではなく、力の論理で仕方がなかったのだろう。

利根川工事の概略

最初の都市計画会議
 江戸の都市計画をめぐり、家臣たちの提案が続く。本多忠勝は、山を削って湿地を埋め立てようと提案。土井勝利は、江戸に流れ込む何本もの川の築堤を提案した。しかし、家康が採用したのは、かつて三河国の一向一揆で家康に背いた伊奈忠次の案だった。すなわち、江戸に流れ込む前に川を曲げる。というものだった。伊奈は、関東平野を2年にわたり調査した結果、その大本は利根川にあることを突き止めた。利根川を東に曲げ、渡良瀬川と合流させ浦安に流すというもの。完成の1621年まで着工から27年の歳月が流れた。結果として与えられた環境の中で最善を尽くすことが、思いもしない可能性を切り開いたことになった

江戸のフロンティア精神
 アメリカ合衆国の発展は、ヨーロッパの古い因習に縛られず、未知の大地に自由にその能力を発揮できたからだと、どこかで読んだ気がする。家康も駿河にいたままでは、天下は取れなかったのではないだろうか?関東という未開の地に対するフロンティア精神があったからこそ、江戸260年の礎を築くことができたように思う。その点で、トランプの『アメリカンファースト』は『引きこもり精神』とでも呼ぶべきものではないだろうか。今の利根川は千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。古代・中世には、猿が又(葛飾区水元)、亀有付近で三川に分流して江戸湾(東京湾)に注いでいた。猿が又で東に分かれた流れは太井川に合流する。太井川は渡良瀬川の下流で、今の江戸川である。亀有でそのまま南下する川が中川であり、西へ分かれる川が隅田川(古隅田川)だった。この古隅田川は消滅したが、今の足立区と葛飾区の区境線に沿うようにして流れ、鐘ヶ淵(墨田5丁目)のあたりで入間川に合流した。埼玉県飯能市に源を発する入間川の流路が今の隅田川である。
 荒川もかつて埼玉県岩槻市付近で利根川に合流していた。1629年、荒川の河道を入間川に移した。入間川に荒川が合流する川越市古谷から下流も荒川に呼ぶようになった。明治44年、洪水対策のため北区岩淵で東に分流させる工事が始まり、昭和5年に完成した。これが荒川放水路であり、今の荒川である。

古代・中世の利根川と隅田川