2017年08月08日

地質時代第10号 平成29年7月発行

九州北部豪雨による土砂災害

異常気象が地形を変える
 梅雨前線や台風第3号の影響により、九州北部地方を中心に局地的に猛烈な雨が降り、大雨となった。特に、7月5日から6日にかけては、対馬海峡付近に停滞した梅雨前線に向かって暖かく非常に湿った空気が流れ込んだ影響で、九州北部地方で記録的な大雨となった。これまでの1時間の最大雨量は、福岡県朝倉(あさくら)で129.5ミリ、長崎県芦辺(あしべ)で93.5ミリ、高知県大栃(おおどち)と大分県日田(ひた)で87.5ミリを観測するなど猛烈な雨となったところがある。これまでの24時間の最大雨量は、福岡県朝倉で545.5ミリ、長崎県芦辺で432.5ミリ、大分県日田で370.0ミリとなるなど、九州北部地方では350ミリを超える記録的な大雨となっている地域がある。 この豪雨の影響で山間部の急斜面が崩れ、大量の土砂と立木を下流部に押し流し、死者32名(7月15日現在)を超える大災害となってしまった。これは、局地的に大雨を降らす地球温暖化が引き金になっていることは間違いない。

大分県日田市大肥本町の被災状況



世界最大の地滑り事故は地質技術者の失敗から
 1960年、イタリア北東部のバイオント川の渓谷に262mの提高のダムが建設された。貯水直後から地滑りが頻発するようになり、ついに1963年10月9日大規模な地滑りが発生した。貯水湖になだれ込んだ土砂に押流され水が津波となってダム下流の集落に壊滅的被害(死者2500人)をもたらした。2008年ユネスコは地球科学の理解が重要であることを示す『五つの教訓と五つの朗報』の教訓の筆頭に「技術者と地質学者の失敗」によって引き起こされた事例としてこのバイオントダム災害をあげ、山腹の地質に対する適切な理解があれば防ぎえたとした。ダムと豪雨では経緯はまったく違うが、山腹の地質的な理解については同じ問題をはらんでいて、地球温暖化によるゲリラ豪雨と日本の地形的特性を理解し、適切な砂防対策が求められる。あらゆる土砂災害の土台には、地質に対する科学的知識と責任感が何よりも求められることを教えている。

災害後のバイオントダム

砂防の歴史
 万葉集の時代、藤原宮造営時(676年~704年)に社寺の建築のため田上山(滋賀県大津市)等から良材を伐採した様子が万葉集に歌われている。
石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ その後、山腹の荒廃が深刻化したと思われる。
 明治維新後、荒廃した山腹を改良するために、藩政時代の技術革新をはかるためオランダを中心に外国人技術者が招聘された。なかでも明治6年(1873年)に来日したヨハネス・デレ-ケは、17種の工法を案出するとともに、日本各地の流域を踏査し、30年の長きにわたり、わが国砂防工事の指導を行った。 ヨーロッパの砂防技術の導入により、内務省技師であった赤木正雄の手により更なる発展を遂げた。彼の設計した成願寺川の白岩砂防堰堤が有名である。
 全国に52万5307箇所の土砂災害危険箇所があり(平成14年現在)、そのうち最も多いのは、広島県の3万1987箇所、ついで島根県、山口県、兵庫県と続き、大分県が1万9640箇所と5番目に多くなっている。

ヨハネス・デレーケ像

赤木正雄技師による白岩砂防堰堤

 

地質時代 第9号 平成29年6月発行

利根川東遷の舞台裏

関東の連れ小便
 1590年夏、秀吉は、一夜城で知られる小田原石垣山の山頂で放尿しながら、家康に関東八カ国(相模、武蔵、上野、下野、上総、安房、常陸)と家康所領(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)との国替えの話を持ちかけた。銀座の一等地からアマゾン奥地の交換を持ちかけられたようなものだった。当事、江戸城の東と南は海、西側は茫々たる萱原、北だけが緑色に盛り上がった台地であった。しかし、北側から何本もの川が流れ込み、江戸を泥地にしていた。秀吉としては家康の力を削ぐつもりだった。家康の家臣団はこぞって反対した。しかし、家康はこれを受けた。土木的は知識も少なかった時代、これは地政学的な戦略や何か展望を持っていたのではなく、力の論理で仕方がなかったのだろう。

利根川工事の概略

最初の都市計画会議
 江戸の都市計画をめぐり、家臣たちの提案が続く。本多忠勝は、山を削って湿地を埋め立てようと提案。土井勝利は、江戸に流れ込む何本もの川の築堤を提案した。しかし、家康が採用したのは、かつて三河国の一向一揆で家康に背いた伊奈忠次の案だった。すなわち、江戸に流れ込む前に川を曲げる。というものだった。伊奈は、関東平野を2年にわたり調査した結果、その大本は利根川にあることを突き止めた。利根川を東に曲げ、渡良瀬川と合流させ浦安に流すというもの。完成の1621年まで着工から27年の歳月が流れた。結果として与えられた環境の中で最善を尽くすことが、思いもしない可能性を切り開いたことになった

江戸のフロンティア精神
 アメリカ合衆国の発展は、ヨーロッパの古い因習に縛られず、未知の大地に自由にその能力を発揮できたからだと、どこかで読んだ気がする。家康も駿河にいたままでは、天下は取れなかったのではないだろうか?関東という未開の地に対するフロンティア精神があったからこそ、江戸260年の礎を築くことができたように思う。その点で、トランプの『アメリカンファースト』は『引きこもり精神』とでも呼ぶべきものではないだろうか。今の利根川は千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。古代・中世には、猿が又(葛飾区水元)、亀有付近で三川に分流して江戸湾(東京湾)に注いでいた。猿が又で東に分かれた流れは太井川に合流する。太井川は渡良瀬川の下流で、今の江戸川である。亀有でそのまま南下する川が中川であり、西へ分かれる川が隅田川(古隅田川)だった。この古隅田川は消滅したが、今の足立区と葛飾区の区境線に沿うようにして流れ、鐘ヶ淵(墨田5丁目)のあたりで入間川に合流した。埼玉県飯能市に源を発する入間川の流路が今の隅田川である。
 荒川もかつて埼玉県岩槻市付近で利根川に合流していた。1629年、荒川の河道を入間川に移した。入間川に荒川が合流する川越市古谷から下流も荒川に呼ぶようになった。明治44年、洪水対策のため北区岩淵で東に分流させる工事が始まり、昭和5年に完成した。これが荒川放水路であり、今の荒川である。

古代・中世の利根川と隅田川