地質時代

浮き上がる!?上野駅と東京駅

平成29年5月6日発行 地質時代2面

江東区、墨田区、江戸川区の観測井の地下水変動図

 

 上のグラフは弊社が東京都土木技術・人材支援センターより受注し、平成28年1月から平成28年12月測定した業務の一年前の地下水位の変位データです。これによると、下町地区で昭和38年から47年に最大T.P.-58mだったのが平成27年にはT.P.-5m程度まで約43m近く地下水が上昇(回復)しています。

  東京都では、昭和28年から毎年継続して地下水や地盤沈下を測定していますが、このような地下水の回復は、地盤沈下を収束させており地下水の取水規制の大きな成果といえます。 地下水上昇で浮き上がる駅舎を守る ① 新幹線の上野地下駅は地下4階建てで、地下30mの東京礫層を基礎としています。地下水位は設計時の昭和54年(1979年)には地下38mと基礎下8mにありましたが、平成6年(1994年)には地下14mまで上昇、さらに11.5mまでになり、専門家の計算では、なんと駅舎そのものが浮き上がることが明らかになりました。その対策が3万トンの鉄の錘を地下4階のホーム下に積み上げて並べました。2tの直方体の鉄の塊を15000個並べたとのことです。地下水の長期にわたる地道な測定が着工前に対策を立てられた大きな要因のように思います。

 ② 総武快速線の東京地下駅は地下5階建てで、地下27mで江戸川砂層の上に直接基礎で作られました。建設時の昭和47年(1972年)の地下水位は地下35mでしたが、平成10年(1998年)には地下15mと20mも上昇しました。このままあと1m上昇すると床の損傷が起き、あと2.5m上昇すると地下駅全体が浮き上がると予想されました。対策として上野駅のような錘方式が検討されましたが、地下水圧のもとでも施行できる新たに改良されたアンカーが費用と機能で優れていると判断されアンカー方式が採用されました。基礎と支持地盤とを接合し、1本のアンカーで100tの水圧に耐えられるものを130本うち、費用は上野駅の三分の一で済んだとのこと。水圧を受けながら掘削する技術革新が経費削減につながったようです。

ローマ帝国と秦帝国の道路の歴史『猿百匹の現象』

地質時代第8号 平成29年5月6日発行 1面

 

 英国の科学史家ジョセフ・ニーダム(1900-1995)は『紀元の前後数世紀における世界で、一つはイタリア半島の一角(古代ローマ)に、もう一つは中国で黄河の山西山脈の屈曲部あたり(長安)に、それぞれ(都市の)中心部から樹状に延びる道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった』と記している。  

 古代ローマの道路網は「すべての道はローマに通ず」のことわざに名高い、BC.312のアッピア街道の建設からはじまりトラヤヌス帝(98-117)時代には総延長29万キロ、主要幹線8万6千キロ(現在の米国は9万キロ)であった。道路のネットワークとしての機能を創造したのはローマ人であった。その目的は、軍隊の配置、役人の公用、生産物の輸送、民間人の移動であった。  

 秦の始皇帝の道路網は、始皇帝が燕・韓・趙・魏・斉・楚(六国)を征服した翌年のBC.220に開始された。皇帝のみが通る道で「馳道」と呼ばれた。「馳道」は秦の首都咸陽を中心にして諸侯列国の首都を連接し、さらに全国に延びるものであった。その延長は7481キロとローマの十分の一であったが、その建設期間はわずか10年ほどであった。その目的は、全国統一と六国の貴族の復活の阻止、六国の財宝を咸陽に輸送すること、阿房宮ほか700ヶ所の宮殿建設の資材運搬をするためであった。もっぱら皇帝の私利私欲のための「馳(ち)道(どう)」であった。

 ローマの歴史1000年に対し、秦はわずか40年の背景には、道路をいかに使うのかに大きな差が生じたようである。(参考:中央新書 道路の日本史 武部健一著より)  そこで、最初のニーダムの問題提起『~道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった。』の一節でふと頭をよぎったのが『百匹目の猿現象』である。これは、宮崎県串間市の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られるようになったという現象である。ウィキペディアによると、この現象に対して、「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」(船井幸雄の見解)という見解があり、もう一つは、「実際には存在しない現象で、疑似科学に分類される」(ウィキペディアの立場)というものである。この二つの見解は相反するようで実は同じ観念によって支配されている。前者は「そうあってほしい」という願望であり、後者は「そんなことは証明されえない」という思惑である。私には、両者とも同じ意見に聞こえてくる。本来ニホンザルの主食は果実、草食の樹上性のものであった。イモを食いだしたのは、戦後の食糧難の時代であり、森林伐採と都市化が進み、サルとて例外ではなかった。畑のイモはそれに変わるものだった。樹上のものは洗わずとも食えた、しかし畑のものは土だらけである。洗うのは当然ではないだろうか?どこのサルも食糧難、どこのサルも畑に目をつける、土がつけば洗う。つまりは、「戦後の食料難の時代が生み出したもの」というのが私の見解である。道路も同じ、「天下統一という歴史時代が生み出したもの」これが「何の関連もなく広がった」理由ではないだろうか?

地質時代 第13号 平成29年10月15日発行

 

法隆寺五重塔

法隆寺の制耐震技術の脅威

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
  世界最古の木造建築物である法隆寺は仏教布教のため聖徳太子によって608年建立された。「大化の改新」では仏教興隆の恩人である蘇我氏が滅ぼされた。670年落雷にて消失。すぐに再建された。1600~1606年慶長大修理、1692~1707年桂昌院による大修理、明治時代の{廃仏毀釈}では回廊内に牛馬を繋がれる状況に陥った。昭和の大修理(1933~1953年)で当初に近い復元ができた。様々な政変を乗り越えさせた原動力は日本人の「聖徳太子」信仰が法隆寺を守り続けたかのようだ。

法隆寺を支える地盤について
  法隆寺はマグニチュード7.0以上の地震を46回も経験し、乗り切ってきた。その最大の要因は、地形地質である。この地域は砂礫質台地と呼ばれる地形で、隆起によって生じた段丘を形成し、表層に約5m以上の砂礫層、砂質土層を持つ安定した地盤。つまり揺れにくく、液状化しない場所を選定したことになる。建設担当者に地盤や基礎に対する経験と知識があったことは間違いない。

日本独自の建築技術「心柱」の確立
 第一は、日本は雨の多い国で中国の年間降雨量の約2倍だ。このため、雨水が建物から流れ落ち、土台周辺の土壌に降り注ぐと、五重塔がいずれ沈んでしまいかねない。これを防ぐために、大工たちは、庇を壁からかなり離して長く造った。建物の全幅の50%以上にもなる軒だ。この巨大に張り出した部分を支えるために、片持ち梁を庇ごとに採用している。
 第二は、建造物の著しい燃えやすさへの対抗策として、庇には瓦が積まれ、木造建築物に火が燃え広がらないようになっている。
 第三は、法隆寺の五重塔は、現代建築に見られるような、中央の耐力柱がない。上に行くほど細くなっていく構造のため、耐力垂直柱で繋げている部分は一つもない。 各階が強固に繋がっているわけではなく、ただ単純に重ねたところを取り付け具でゆるく留めているのみなのだ。この構造は実際、地震国では大変な強みになる。地震の際、上下に重なり合った各階がお互いに逆方向にくねくねと横揺れするため、強固な建物にありがちな揺れ方はせず、振動の波に乗った液体のような動きになる。
 第四に、一方で、あまりにも各階が柔軟になりすぎるのを避けるために、大工たちは、とある独創的な解決法に行き着いた。これが心柱だ。見た目は、大きな耐力柱のようだが、実際にはこれは建物の重さをまったく支えていない。心柱は、まさに自由な状態で吊り下げられているだけなのだ。心柱は、大型の同調質量ダンパーの役割となって、地震の揺れを軽減する助けとなっている。各階の床が心柱にぶつかることで、崩壊するほどの横揺れを防ぎ、揺れもいくらか吸収している。言うなれば、基本的には、十分な質量のある不動の振り子であり、より軽い各階の床があまりに自由に横揺れしすぎないように歯止めをかけている。
現在でも、これと同じダンパー技術が使われているスカイツリーのほかに台北101(台北国際金融センター)は、92階から巨大な、730トン4階分の鋼鉄の振り子をぶら下げ、強風でビルが横揺れするのを防いでいる。ニューヨークのシティコープ・センターもまた、ハリケーンの際の揺れを防ぐのに、400トンのコンクリート・ブロックを使用している。

 

教科書から消える聖徳太子 歴史が英雄をつくる! 聖徳太子的人物の存在が・・・

 

聖徳太子から福沢諭吉へ

 聖徳太子の業績は、冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣などが上げられますが、歴史研究の発展により、実はこれらは、太子一人の実績ではないことが明らかになってきたようです。そこで教科書では、聖徳太子の表記を止め、厩戸王と表記するようになったようです。しかし、この時代の天皇の摂政として存在していたのは確かなようですが1万円札の肖像としての復帰は難しいかも知れません。

仏教による国づくりの象徴としての聖徳太子

 当時の日本が国づくりを進める中で、大陸の宗教や立法、身分制度を参考にしたのは間違いない。しかし、それは自然に入ってくるものではなく、明確な目的意識と行動を必要としたはずだ。それを取り入れた英雄こそ、聖徳太子的な人物だったのではないだろうか?(もし、ナポレオンが生まれてこなかったら、歴史は別のナポレオンを生み出した)

大工の神様 聖徳太子

 11月22日は「大工さんの日」です。11月が「技能尊重月間」、十一を合せると「建築士」の「士」の字になること。22日が聖徳太子の命日(622年2月22日)さらに11は二本の柱、二は土台と梁と見なして「大工さんの日」としたようです。 孟子の教えに「規矩準縄(きくじゅんじょう)」という言葉があります。物事や行動の基準、手本を正しくすることを意味するとのこと。 ここから発して大工の伝統技術に規矩術(きくじゅつ)というものがあり、大工の数学のようなもので、「規」とは「円を描く」、「矩」とは「方向、直角」、「準」とは「水平」、「縄」とは「垂直、鉛直」ということを意味し、家造りの最も基本となるキーワードです。更に、大工道具のことも指しているそうで、『規=定規』『矩=差し金』『準=水盛り』『縄=墨縄』となります。 この中の『矩=差し金』を日本に持ち込んだのが聖徳太子とのことです。 法隆寺のような建造物を初めて日本に作るためには、道具と技術の伝承は絶対的に必要だったことは間違いない。 道具は現物でよいが、技術はどうしたのか?聖徳太子は太子講といって、大工を集めて建築の講義のようなものをしていたそうです。 当時の政治家はテクノロジーの優れた伝承者でもあったようです。

地質時代 第9号 平成29年6月発行

利根川東遷の舞台裏

関東の連れ小便
 1590年夏、秀吉は、一夜城で知られる小田原石垣山の山頂で放尿しながら、家康に関東八カ国(相模、武蔵、上野、下野、上総、安房、常陸)と家康所領(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)との国替えの話を持ちかけた。銀座の一等地からアマゾン奥地の交換を持ちかけられたようなものだった。当事、江戸城の東と南は海、西側は茫々たる萱原、北だけが緑色に盛り上がった台地であった。しかし、北側から何本もの川が流れ込み、江戸を泥地にしていた。秀吉としては家康の力を削ぐつもりだった。家康の家臣団はこぞって反対した。しかし、家康はこれを受けた。土木的は知識も少なかった時代、これは地政学的な戦略や何か展望を持っていたのではなく、力の論理で仕方がなかったのだろう。

利根川工事の概略

最初の都市計画会議
 江戸の都市計画をめぐり、家臣たちの提案が続く。本多忠勝は、山を削って湿地を埋め立てようと提案。土井勝利は、江戸に流れ込む何本もの川の築堤を提案した。しかし、家康が採用したのは、かつて三河国の一向一揆で家康に背いた伊奈忠次の案だった。すなわち、江戸に流れ込む前に川を曲げる。というものだった。伊奈は、関東平野を2年にわたり調査した結果、その大本は利根川にあることを突き止めた。利根川を東に曲げ、渡良瀬川と合流させ浦安に流すというもの。完成の1621年まで着工から27年の歳月が流れた。結果として与えられた環境の中で最善を尽くすことが、思いもしない可能性を切り開いたことになった

江戸のフロンティア精神
 アメリカ合衆国の発展は、ヨーロッパの古い因習に縛られず、未知の大地に自由にその能力を発揮できたからだと、どこかで読んだ気がする。家康も駿河にいたままでは、天下は取れなかったのではないだろうか?関東という未開の地に対するフロンティア精神があったからこそ、江戸260年の礎を築くことができたように思う。その点で、トランプの『アメリカンファースト』は『引きこもり精神』とでも呼ぶべきものではないだろうか。今の利根川は千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。古代・中世には、猿が又(葛飾区水元)、亀有付近で三川に分流して江戸湾(東京湾)に注いでいた。猿が又で東に分かれた流れは太井川に合流する。太井川は渡良瀬川の下流で、今の江戸川である。亀有でそのまま南下する川が中川であり、西へ分かれる川が隅田川(古隅田川)だった。この古隅田川は消滅したが、今の足立区と葛飾区の区境線に沿うようにして流れ、鐘ヶ淵(墨田5丁目)のあたりで入間川に合流した。埼玉県飯能市に源を発する入間川の流路が今の隅田川である。
 荒川もかつて埼玉県岩槻市付近で利根川に合流していた。1629年、荒川の河道を入間川に移した。入間川に荒川が合流する川越市古谷から下流も荒川に呼ぶようになった。明治44年、洪水対策のため北区岩淵で東に分流させる工事が始まり、昭和5年に完成した。これが荒川放水路であり、今の荒川である。

古代・中世の利根川と隅田川

地質時代 2016年4月第7号

平成28年熊本地震

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今回の地震で亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、今もまだ、苦しい避難生活を送られている方々に、お見舞い申し上げます。

熊本地震の特徴は、第一、震度7が連続発生したこと。第二、86kmにわたる断層帯にそって広範囲に発生している事。第三、震度7が2回、6が5回、5が10回と大きな余震が続いていること。で、いずれも前例のない地震であり、正しい評価は、現段階では難しいようです。

地震の命名について

今回の地震は、「平成28年熊本地震」と気象庁が発表しましたが、気象庁の命名基準は、①陸域ではM 7.0以上震度5弱以上。②顕著な被害(全倒壊100棟程度以上)、③群発地震で被害が大きかった場合。名称の付け方は、「元号+地震情報に用いる地域名+地震」ですが、これとは別に政府が命名する場合があります。

気象庁命名「平成7年兵庫県南部地震」⇒政府命名「阪神・淡路大震災」
気象庁命名「平成23年東北地方太平洋沖地震」=政府命名「東日本大震災」
自然現象としての単なる地震ではなく、地震によって甚大な被害を蒙った事実を忘れないために「○○大震災」という名称は必要であるし、歴史にしっかり刻む必要があると思います。

地震の所轄機関はどうなっているのか?

  1. 気象庁(国土交通省外局):震度速報(震度3以上)、震源の情報、津波情報、各地の震度など
  2. 地震調査研究推進本部(文部科学省):行政施策に直結すべき地震の調査研究の責任体制を政府として一元的に推進するための機関。
  3. 地震予知連絡会(国土地理院):国の機関、大学等で進められる観測成果の集約と発表。
  4. 産総研地質調査所(経済産業省):地質調査のナショナルセンターとして地質情報の整備。

地震メカニズムについての機関は会計監査院あたりで交通整理すればもっと機能的になるかもしれない。他方で、災害対策にあたる機関もまた、自治体・自衛隊・警察・消防がその都度連携しているだけで、緊急物資の配分などSNSで各人が自然発生的に行っているのはいかがなものだろうか?地域コミュニティーの連携、情報集約と素早い初動活動のできる体制が望まれる。

関東地方の活断層と首都直下地震

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1. 関谷断層(那須塩原、塩谷・M 7.5)
2. 内ノ龍断層(栃木県西部・M 6.6 )
3. 片品川左岸断層(群馬県北部・M 6.7 )
4. 大久保断層(前橋、桐生、足利・M7↑)
5. 太田断層(桐生、太田、千代田・M6.9)
6. 長野盆地西縁断層帯(M 7.4~ 7.8 )
7-1深谷断層帯(高崎、東松山・M 7.9 )
7-2綾瀬川断層(鴻巣、伊奈、川口M 7 )
8. 越生断層(越生町・M 6.7)
9. 立川断層帯(青梅、立川、府中・M7.4)
10. 鴨川低地断層帯(鴨川、富山町・M7.2)
11. 三浦半島断層群(三浦半島中南部・M6.6)
12. 伊勢原断層(愛川町、伊勢原、平塚・M7 )
13-1塩沢断層帯(山北町、御殿場・M6.8)
13-2平山-松田北断層帯(開成町・M6.8)
13-3国府津-松田断層帯(大井町・M6.8)
14. 曽根丘陵断層帯(笛吹、甲府・M 7.3 )
15. 富士川河口断層帯(富士宮、静岡・M7.2)
16. 身延断層(身延、富士宮・M 7 )
17. 北伊豆断層帯(箱根、湯河原、伊豆M7.3)
18. 伊東沖断層(M 6.7 )
19. 稲取断層帯(河津、伊豆大島西方沖・M7 )
20. 石廊崎断層(M 6.9~ 7 )
21.糸魚川 -静岡構造線断層帯(M 7.7)

2012年東京都防災会議は「首都直下地震等による東京の被害想定」の報告書を発表していますが、発表当時はかなりインパクトがありましたが、5年もたつとすっかり忘れていました。今度の地震でもう一度記憶に焼き付け、できうる防災対策で備えましょう!

地質時代 2015年4月第6号

玉川上水今昔物語

江戸は一日してならず

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地質時代1号で、徳川家康は江戸入府に先立って、1594年~1654年に「利根川東遷」での関東平野の治水事業の実施を紹介しました。これに先立 つ1590年、家康は大久保藤五郎に水道の見立てを命じ、藤五郎は、小石川上水を作り上げたと伝えられています。その後、1629年には、井之頭池や善福 寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする神田上水が完成。南西部では赤坂溜池を水源として利用していました。

1609年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ロドリゴの見聞録)でしたが、3代将軍家光の時、参勤交代の制度が確立すると、人口増加に拍車がかかり、既存の水道では足りなくなり、新しい上水の開発が日程に上りました。

1652 年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立てました。工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、工事請負人は庄右衛門と清右衛門兄弟に決定。水道奉行に伊 奈半十郎忠治が命ぜられました。1653年4月4日着工し11月15日に羽村取水口から四谷大木戸まで素掘りが完成。全長43km、高低差92mの緩勾配 です。180m/日の驚異的進捗率です。

翌年6月には虎ノ門まで地下に石樋、木樋による配水管を敷設、江戸城はじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋一帯に給水しました。兄弟は褒章に玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

明治になると、末端の木樋に汚水が流入し、しばしばコレラが大流行するようになり、浄水場で原水ををろ過し、鉄管を通じて加圧給水する近代水道の建設が急務 となりました。1898年12月、玉川上水を導水路として、代田橋付近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を建設、神田、日本橋方面に給水を開始しました。1965年には、利根川の水が東京に導かれ、淀橋浄水場は廃止。玉川上水は導水路としての役割を終えました。1984年には、清流復活事業の一環で、昭島市の東京都下水道局多摩川上流再生センターで処理された再生水は、高井戸を経緯し、神田川に合流しています。

2012年、新宿区は、新宿御苑の北を走る国道20号線のトンネル上部に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」の供用を開始しました。水路の水源は、この地下トンネルの地下水をポンプアップして利用。ヒートアイランド現象の緩和にも期待されています。

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関東地方の活断層

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1.関谷断層
2.内ノ龍断層
3.片品川左岸断層
4.大久保断層
5.太田断層
6.長野盆地西縁断層帯
7-1深谷断層帯
7-2綾瀬川断層
8.越生断層
9.立川断層帯
10.鴨川低地断層帯
11.三浦半島断層群
12.伊勢原断層
13-1塩沢断層帯
13-2平山-松田北断層帯
13-3国府津-松田断層帯
14.曽根丘陵断層帯
15.富士川河口断層帯
16.身延断層
17.北伊豆断層帯
18.伊東沖断層
19.稲取断層帯
20.石廊崎断層
21.糸魚川-静岡構造線断層帯

地質時代 2014年11月第5号

浦安液状化判決の本質

10月8日と31日、浦安市で発生した東日本大震災での液状化被害の損害賠償裁判が、相次いで一審、住民側敗訴の判決が下されました。

8日の裁判では、三井不動産が1981年以降に行った分譲地に対するもので、判決は「住宅の販売時( 1981年当時)に液状化を予測するのは困難だった」と判断しました。また、三井不動産が研究者の報告をもとに、液状化に有効とされる工法をとっていたことも挙げ、「対策が不十分だったとは言えない」としました。

31日の裁判では、やはり、三井不動産が2003年~2005年にかけて分譲した土地に対するもので、判決は、「揺れる時間が数十秒の通常の地震が想定されていた」と指摘。「今回のように2分も続く地震は、当時の知見では予測不可能だった」として、業者側の責任を否定しました。
住民側にとって、まったく気の毒な判決となりました。判決の趣旨は、「当時は科学的に自然現象を予測できなかったのは、過失ではない。」ということであります。しかし、科学は常に発展しているとはいえ、自然現象が常に新しい課題を提起するのであって、決して科学が自然に追いつくことはないことは明白です。しかも、法律は自然科学のはるか後ろをゆっくりと歩いています。したがって、自然現象に起因する災害被害の行き着く先は「想定外」という聞きなれた言葉に収束していきます。今回の2例の判決の本質は、福島原発と同じ問題が提起されているように思われま
す。

現代社会において、日本人が初めて液状化現象を意識したのは、1964年の新潟地震でした。この時から、液状化を考慮した構造物設計指針の導入が始まりました。以下、概観します。

 

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これでも「想定外」は付きまとうでしょう。さらに火災や倒壊を考慮すると、暗澹たる気持ちになります。しかし、それでも、人々は立ち上がり、復興してきた姿を見るとき、本当の財産と防災は、地域住民の絆、共同体の力以外にないように思われます。

建築家の格言と作品

フランク・ロイド・ライト(1867~1859)

アメリカの建築家 代表作:旧帝国ホテル新館、カウフマン邸(落水荘)、山邑邸、ユニティ教会
若い時は、不倫や放火殺人に巻き込まれるスキャンダラスな人生。70歳代で代表作を作り上げた。長く生きるほど、人生は美しくなる。

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ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969)

ドイツの建築家 代表作:バルセロナ・パビリオン
20世紀モダニズム建築を代表する建築家。バルセロナチェアー(椅子)のデザインでも有名。
より少ないことは、より豊かなこと。
神は細部に宿る。

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ル・コルビュジエ(1887~1965)

フランスの建築家 代表作:サヴォア邸近代建築の五原則(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)を体現。
住宅は住むための機械である。

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アントニオ・ガウディ(1852~1926)

代表作:サクラダ・ファミリア
芸術におけるすべての回答は、偉大なる自然の中にすべて出ています。ただ、私たちは、その偉大な教科書を、紐解いていくだけなのです。・・・世の中に新しい創造などない、あるのはただ発見である。

ヴァルター・グロピウス(1883~1969)

代表作:メットライフ・ビルディング
専門家とは、いつも同じ間違いを繰り返す人たちのことである。

ルイス・カーン:

創造とは、逆境の中でこそ見出されるもの

ルイス・サリバン:

形式は機能に従う

フンデルトヴァッサー:

直線に神は宿らない
自然に存在するのは曲線のみで、定規で引いたような直線を徹底的に拒否した。

地質時代 2014年10月第4号

9月27日11時52分、秋の登山客で賑わう御嶽山が突如噴火、12名が死亡した。生存者の話では、山頂近くにいた人々は、山小屋や神社の庇に避難する1~2秒差で生死を分けたという。アッという間に火山灰が積もり、呼吸困難に。また、降ってきた石で頭が陥没した人、子供の「苦しいよう」という言葉に父親がはげます声が、やがて聞こえなくなるなど、まさに地獄絵が展開された。

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翌28日(日曜日)、火山噴火予知連絡会拡大幹事会が開催され、御嶽山噴火の検討が行われた。メンバーは国立大学、国土地理院、気象庁、国交省など。検討結果は、水蒸気噴火であったことが確認された。また、噴火7分前に山体が膨張する現象、火山性地震などが観測された。また9月上旬に一旦、火山性地震が増加したがその後は沈静化しており、火山課長は「前兆をとらえ予知するのは難しかった」と語った。

世界の活火山の7%が日本に集中している。ちなみに、活火山の定義は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義され現在110ある。さらに、2009年6月には、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び社会的影響を踏まえ、「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要のある火山」として47火山が火山噴火予知連絡会によって選定された。これらの火山では、地震計、傾斜計、空振計、遠望カメラ、GPS観測による24時間の観測体制がとられいる。御嶽山はこのひとつ。1~ 2秒で生死を分けたのであれば、7分あれば警報やサイレンでなんとかならなかったのだろうか?

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米国土木学会選定の20世紀10大プロジェクト『関空』のギネス級地盤沈下

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関西空港は、アメリカ土木学会の選定する20世紀の10大プロジェクトのうちの空港部門に選定されている。橋梁部門ではゴールデンブリッジ、高層ビル部門ではエンパイヤーステートビルの名があげられている。それだけすごい施設であるが、圧密沈下もすさまじく、建設以降最大14m以上も沈下しており、沈下量は少なくなっているが、まだ収まっていない。厄介なのは、Maと表示された海成粘土層でMa 1(最下部)~Ma 13(最上部)まで、13層の粘土層が500m近くまで分布し、各層で空港島の荷重を受け沈下している。Ma 13はサンドパイルの打設で沈下は収束したが、それはせいぜい20m程度。50年後も『関空』残っているのか?

 

地質時代 2014年9月第2号

広島市土石流災害の悲劇!

8月20日に発生した、広島市の土砂災害は、死者72名、行方不明者2名(8月29日現在)という悲劇をもたらしました。

国土交通省の調べでは、全国に土砂災害の危険個所に指定されているのは525,307個所にものぼるとのこと。今回被災した地区は警戒区域どころか危険個所の指定もなかった。行政は危険性を認識しつつも、対策工事を行う義務の発生に逡巡があったようだ。また、警戒個所としてハザードマップにのれば、不動産価格に影響があることもあり、住民説明での確認も必要になってくる。安全安心よりも経済を優先するこのような経済的背景が、被害を大きくした原因ではなかったのか?

 

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上2枚の写真は、グーグルストリートヴューで見 た安佐南区八木3丁目付近の土石流前の町並み。奥 の山並みが不気味に住宅地を睥睨しているが、日本 のどこにでもありそうな雰囲気。もう一枚は、なん と住宅新築中の工事現場。被災の有無は分らない が、丘陵地の危険地域であることはまちがいない。 中の写真は、八木3丁目の被災状況。原形がまった くわからない。時速40kmで数千~十万トンの土 砂と水と材木と岩石が襲い掛かってきた。

下の写真は、安佐南区の八木地区と緑井地区の空中写真。 阿武山に裾野から這い登るように宅地開発が進んで いることがわかる。土肌が出ているところが今回、 土砂崩れを起こした個所。こうして、高い視点でみ ると如何に危険であったのか、いや、現在も危険で あることに戦慄を覚える。

われわれ地質調査業者 の責任は、このような高い視点で危険を喚起し続けることかもしれない。 ご冥福をお祈りいたします。

 

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江戸トレジャーハンターで一攫千金・・・もとい、中央区へ提出へ

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左の写真は、最近オープンした「コレド日本橋」の旧東急デパート新館跡地から発掘した18世紀中ごろの商家の遺跡です。小さくてわからないが、石組みの下水、木組みの下水、井戸、穴蔵、など遺構が多数出土した。とりわけ注目すべきは木組みの頑丈な穴蔵です。穴蔵とは、火事が多かった江戸の町で、頑丈な金庫がない時代、貴重な財産を地下に穴を掘って埋めることで守っていたとのこと。写真でみると、江戸時代の建物は現状地盤よりかなり低いところにあります。これは、度重なる火事や地震、そして空襲での瓦礫が堆積したもので、今回の大規模な再開発がないかぎり財宝が埋もれたままになっている可能性は非常に大きいと思います。

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右写真は八丁堀2丁目の遺跡の便所跡から出土した天保一分金(時価32,000円也)

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左図は、中央区でこれまで発掘された遺跡の地図です。ほとんど江戸時代の遺跡になります。これらは、建設工事の根伐り工事が契機に発見されることが多いようです。掘削工事でもしないと容易と発見できません。今、都心のビルの老朽化が進み、都からは厳しい耐震基準が指導されています。ビルの解体建て替えはこれからが本番。建設会社は江戸トレジャーハンターになるかもしれません。また、日本橋小伝馬町では伝馬町牢屋敷が発掘されました。安政の大獄で吉田松陰や橋本左内らが投獄、その他、平賀源内、高野長英、渡辺崋山、佐久間象山など歴史上の有名人が入牢してました。

 

地質時代 2014年8月第2号

26歳の若き土木技術者が80年前に創造した世界に類を見ないドーム型防波堤

稚内港北防波堤ドーム

1936年(昭和11年)稚内築港事務所の26歳の技手、土谷実(1904~1997)が設計。稚内特有の強風とサハリンからの高波を防ぐために考案された、庇の付いた防波堤です。土谷は築港事務所の先輩技術者である平尾俊雄から指導を受け、平尾がフリーハンドで描いたものを具体化しました。

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事実の把握、そして歴史に学べ

この構造物は、見栄や利権や営利からではなく、強風や高波から人々を守る目的で設計されました。

平尾はこの北防波堤設計にあたり、土谷に次のことを命じました。波の高さと基礎となるべき当時は主流の木杭の腐食調査です。その結果、木杭は虫に食われ役に立たないこと、高波の高さは24尺(7.27m)を優に超えることが判明しました。
そこで、平尾は防波堤に天蓋を設け、コンクリート杭を使う決断をしました。全体の形状は越波の観察からイメージしたものです。

土谷は途方に暮れました。いまだかつて経験したことのない設計でした。彼が採用したのは、彼が経験したコンクリートアーチ橋とギリシャ・ローマ建築の資料でした。「歴史に学べ」という格言の重さを再認識しました。

江戸城無血開城は生産力の発展と新しい人間関係の産物だった!

大政奉還と勝・西郷会談

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明治維新は、古今東西の革命の例にもれず戦争の産物でした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、野洲梁田の戦い、市川・船橋戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、東北戦争、函館戦争など無数の戦いが全国で戦われました。前後して1868年幕府の血を求める官軍の行進が江戸に向かった。

当時の江戸は100万都市であり、日本中のモノの基地であった。江戸との物流が地方の生命線でもあった。しかし、日本列島の地形は、山と谷、川と海に分断させられ、その結果幾多の藩が生まれ、戦国時代には派遣を争った。江戸時代になって、農業生産を飛躍的に発展させる土木工事が行われ、農民たちは協力して土木工事に参加し、農村での共同体意識は格段に高まっていった。

さらに、広重の東海道五三次をみるとそこには各宿場の風景と生き生きとした人々の姿がすべての絵に描かれている。出発の日本橋では様々な職業の人が橋を覆い隠すよう歩いている。終点の京都三条大橋でも同様である。生産力の発展が日本の地形的分断性を物流によって克服させ、江戸を単なる幕府の居城から日本の中心という意識がすべての日本人に共有されていたことが伺える。そのような意識が勝と西郷をとらえ、江戸の壊滅は地方の壊滅に繋がると判断し、無血開城に繋がったように思う。

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