コラム

ブロック塀倒壊事故の教訓

2018年6月15日発行 地質時代第21号 2面

 

 大阪府北部で震度6弱を記録した地震の影響で、同府高槻市立寿栄(じゅえい)小のブロック塀が倒壊して女児が亡くなった事故で、塀の基礎部分(高さ1.9メートル)とコンクリートブロック(1.6メートル)を接続する鉄筋の長さが33センチしかなかったことが明らかになった。専門家によると、ブロックの上部まで鉄筋が届いていなければならず、接続部分が脆弱(ぜいじゃく)で危険な構造だったという。

ブロック塀倒壊現場

 

 

 

 

 

 

 

 

 大阪大大学院の真田靖士准教授(コンクリート系構造学)によると、ブロックの厚さは15センチで、8段分が積み重ねられていた。ブロックと基礎部分をつなぐ鉄筋は、基礎部分に13センチ、ブロック内に20センチ入っていた。鉄筋は太さ1.3センチで、長さ約40メートルある塀に約80センチ間隔で約50本埋め込まれていた。

寿栄小学校のブロック塀の構造

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 接続部分以外にも鉄筋は確認されたが、基礎部分とはつながっておらず、真田准教授は「強い地震だったので、非常に倒れやすかったと思う」と話した。の間隔で設置が必要とされる「控え壁」と呼 左図のように、堅牢な基礎部分の上に設置されたブロック塀であるが、基礎との結合のための鉄筋が余りにも不十分であった。 プールの目隠し、侵入者防止で設置したブロック塀と思われるが、結果的に地べたに設置するより危険な構造物となってしまった。 控え壁の設置も見落とされている。おそらく、我々の認識として、ブロック塀の倒壊でも人が死ぬのだということを見落としていたことに最大の原因がある。 亡くなった小学生はそのことを我々に教えてくれたのだ。ご冥福をお祈りします。

ブロック塀点検ポイント

地震発生確率3%以下の地域が地震に襲われた!

2018年6月15日発行 地質時代第21号 1面

 

地震発生確率は、3%以下

 大阪府北部地震は、2018年6月18日7時58分、日本の大阪府北部を震源として発生した。地震の規模はM6.1(暫定値)で、震源の深さは13 km 最大震度6弱を大阪府大阪市北区・高槻市・枚方市・茨木市・箕面市の5市区で観測した。大阪府で震度6弱以上の揺れを観測したのは初めて。 政府の地震調査委員会は今回の地震を「有馬─高槻断層帯」など三つの活断層に関連している可能性があると発表した。しかし、これらの断層帯のどこかで30年以内に地震が発生する確率は0%から3%。振り返れば、震度7を2度記録した2016年の熊本地震でも30年以内のマグニチュード(M)7.0級の地震発生確率は1%未満だった。地震予測はなぜこうも当たらないのか?

地震は予測不能が世界的常識

地震発生予測の確立

 『日本人は知らない「地震予知」の正体』の著書があるロバート・ゲラー氏(東大名誉教授、地震学)は、政府の予測を「問題だらけ」と指摘する。  「地震が起きるメカニズムは非常に複雑で、現在の科学で予知ができないのは地震学の世界的なコンセンサス。それなのに検証されていない計算式を使い、今後30年間で70%程度の確率で地震が起きるなどというハザードマップを作っている。これはもはや予言の類です」  ゲラー氏によると、政府のハザードマップは(1)地殻にひずみがどれだけたまっているか、(2)地震が周期的に起きているかどうか、の二つの仮説に基づいて作られている。しかし、地震発生が周期的でないことは、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者たちによってすでに明らかにされているという。 地震予知に関する関連予算は20年(平成元年~20年)で2182億円!  これだけの予算を費やしても予測できない。 日本では、地震はいつでもどこでも起こりえる。という事実を否定し、いくつかの地震の巣があって、それ以外は安全という世論を作り上げるための予算であるかのようだ。地震予知を予言の類と切り捨てるゲラー博士は言いすぎと思う。研究そのものは大いに意義あるものだが、自然現象のメカニズムを解明するにはまだ実用的でない、ということだろう。 それにも係わらず、原発の安全性を論じるとき、断層がない、過去に地震の形跡がないから安全、という論議に大いに利用された観がある。 地震メカニズムが科学的に確立するまでは、日本では原発を利用すべきではないだろう。

聴竹居 環境共生住宅の原点

2018年5月15日発行 地質時代第20号 2面

 

「聴竹居」(チョウチクキョ)は1928年(昭和3年)に建築家 藤井厚二(1888~1938)によって、京都府乙訓郡大山崎町に建てられました。40歳のときの作品です。

全景

 

 2017年国の重要文化財に指定されました。「真に日本の気候・風土にあった日本人の身体に適した住宅」という理想を追い求めた住宅であることが評価されました。  藤井は、「その国を代表するものは住宅建築である」という言葉を残しています。  

 淀川から上がってくる西風を室内に取り込むために畳の段のあるところがスライドで開き、そこから外の風が入ってきています。いわゆる自然の換気扇です。さらに、天井には紙を5枚張り重ね、湿気を吸い取る工夫を試みている。

 天井にも同じような穴が空いており、ここからも空気が降りてきています。縁側のガラスは、夏は日差しを中に入れたくないし、冬は入れたいという矛盾した考えを実現するために、屋根の軒先の角度を見事に調節し、上部に刷りガラスを絶妙な場所に入れています。これは太陽の位置を測定して、すりガラスを入れて無粋な軒先を見えないようにして、見下ろす川のパノラマ感を演出しています。

空調

 また、縁側の角には柱がなく、屋根の端を吊り上げるような造りになっており、その強度は阪神大震災でもびくともしなかった。 客室では自作の机と椅子があり、ここでも工夫が見られます。着物を着た女性が座りやすいように座後ろを大きく開けてある椅子。畳に座っている人と、椅子に座った人と目線が合う位置に調整してあります。和と洋を目線でかみ合わせるという試みです。基本的にほぼ全面バリアフリーになっています。  冷暖房完備、バリアフリーを建築に体現することは現代の建築では当然過ぎることかもしれないが、昭和3年という時代は3.15事件や満州事変など殺伐とした事件が相次ぎ、翌年には世界恐慌が始まる時代の中、藤井の『人間に注ぐ暖かい思いやりこそ日本人の原点だ』という設計思想が作り上げた住宅といえまいか。

ハワイ キラウエア火山の噴火

2018年5月15日発行 地質時代第20号 1面

 

ハワイ島キラウエア火山の噴火は3日に始まり、17日には爆発的な噴火が発生。火山灰が上空9100メートルにまで吹き上がった。流れ出たマグマが海に到達するなど、被害は収まる気配を見せていない。20日現在、建物40軒が溶岩流にのみ込まれた。住民約2000人が避難中だが、警戒体制は機能しており死傷者はいない。

太平洋プレートとホットスポット  

ハワイ諸島(ハワイ、マウイ、ラナイ、モロカイ、オアフ、カウアイ、ニイハウ)は一つのホットスポットによって生じた火山がプレート移動することで連続的に形成されてきました。この火山はマントル対流の上昇によって生じた太平洋プレート(変形しない剛体)の下(リソスフェア=弾性体)の下のアセスフェア(流動体)の局所的な溶解部分(ホットスポット)からもたらされたマグマによるものです。  ホットスポットによる火山活動で形成された島は、太平洋プレートに乗っかって日本に向かって移動し、次々と新しい島を生んできました。一番古い島はカウアイ島で510万年前に形成され、現在、活発に活動しているハワイ島は43万年前に形成されました。 左図がその仕組みです。      

 

 

 

 ホットスポット自体も8000万年から5000万年かけて、遠くアリューシャン列島あたりから1700km南下したことがわかっています。  

粘り気が決める火山の形

ドローンが捉えた溶岩流

 キラウエア火山の溶岩はサラサラ血液のようにゆっくりと流れ観光客が触れるほどですが、日本の火山は爆発的で近くに寄ろうものなら命がない。この違いは、二酸化珪素の含有量が決めています。(少ないほどサラサラ)。そして山の形も、楯を伏せたようなキラウエア、美しい富士山という違いを生みだした。

日本三大大崩

2018年4月15日発行 地質時代第19号 2面

1911年8月8日 稗田山崩れ(ひえだやまくずれ) 長野県小谷村

稗田山崩れ

 

崩壊4日前に台風が通過。記録的な降雨があった。死者26名。土砂の崩壊地点からの到達点は6km。最深100m以上の谷を埋めた。姫川の合流点で堆積。長瀬湖という天然ダムを形成した。地元住民らは排水路の設置に取組むが功を奏せず、一部決壊。糸魚川市河口にまで被害が及んだ。日本における20世紀最大の土砂災害となった。 (正面奥、稗田山。土砂が浦川を埋め尽くす)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1707年(宝永4年) 大谷崩(おおやくずれ)

静岡市葵区の大谷嶺南斜面  宝永地震によってできた山体崩壊。大谷嶺は標高1999.7m安倍川の水源の一つ。1530年にも崩壊があった。下流に長さ1里、横幅10丁の池を生じさせた。作家 幸田文が72歳のときに現地に接した。その迫力に圧倒され全国の崩壊地を訪ね歩き『崩れ』というエッセイをまとめた。さらに幸田文の孫である青木奈緒は祖母の著した『崩れ』の地を訪れ、『動くとき、動くもの』(講談社)といエッセイ集を著した。 (大谷崩の全景)

 

1858年4月9日 鳶山崩れ(とんびやまくずれ) 富山県・岐阜県の県境  

鳶山と立山カルデラ

鳶山崩れ

 

跡津川断層を震源とする飛越地震(飛騨・越後)M7.1によって生じた。鳶山には大鳶山と小鳶山の二つのピークがあったが、山体崩壊により完全に消滅。立山カルデラに大量の土砂が流れ込み温泉客と従業員は土石流に巻き込まれ死亡した。また、常願寺川・神通川・黒部川の河道閉塞と決壊により下流に大きな被害を与えた。 鳶山と立山カルデラ

大分県中津市耶馬渓の斜面崩壊

2018年4月15日発行 地質時代第19号 1面

 

青の洞門

大分県中津市耶馬渓町金吉で11日未明に起きた山崩れの現場を調べた国土交通省の専門家チームは11日記者会見し、雨の影響がなかったとみられるのに崩れた原因について、風化して亀裂が入るなどしていた岩盤が崩壊し、表層の土砂の層もろとも崩れ落ちたとの見方を示した。

耶馬渓の歴史

耶馬渓は、日本三大奇勝として名勝に指定されている。地質は新生代第四紀(258万8千年前から現代)の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩、溶岩からなる台地の侵食が奇岩連なる絶景を生み出している。命名は1818年、頼山陽が中国風の文字をあて漢詩に詠んだのが起源。 江戸時代後期、羅漢寺の禅海和尚が中心になり参拝客の安全のためノミ一本でトンネルを掘りぬき、これが『青の洞門』と呼ばれる。これを素材に菊池寛は「恩讐の彼方に」という小説を著した。 人力で掘れるほどの岩盤なので風化しやすいことが伺える。

斜面崩壊のメカニズム

調査チームは「大雨で地下水が上昇し土砂の強度が低下することがあるが、何日か前に降った雨でこれだけの崩壊を引き起こすことは考えられない」と指摘。斜面の上部から地下にかけてある火山噴出物が固まった「溶結凝灰岩」などの基礎的な岩盤が「風化が進んで割れ目や亀裂が発達し、いつ崩れてもおかしくないくらいに強度が低下していたと考えられる」とした。 南から見た斜面崩壊の現場 産業技術総合研究所の石塚吉浩・火山活動研究グループ長によると、一帯は溶結凝灰岩が斜面の上部に、下部に安山岩などの地層がある。 防災科学技術研究所の地すべり分布図によると、現場周辺では過去に多くの地すべりが起きたとみられる。井口隆客員研究員は「等高線の形状を見ると、今回の現場でも過去に地すべりがあった可能性が高い」と話す。 警戒区域に指定されても住民にとっては、何時起こるかも知れない山崩れに対し、なすすべがない。専門家による科学的検証が待たれる。 赤い破線で囲んだ辺りで斜面崩壊が発生したとみられる。オレンジ色は土砂災害特別警戒区域、黄色は土砂災害警戒区域。

警戒地区と被害地区

斜面崩壊の現場

山崩れのメカニズム

永代橋落ちた 永代橋に刻まれた歴史

2018年3月15日発行 地質時代第18号 2面

 

現在の永代橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忠臣蔵の橋  

1698年8月、五代将軍綱吉の50歳の誕生日を祝し、現在より100m上流に作られた。監督は、関東郡代、伊奈忠順があたった。資材は、上野寛永寺造営の際の余材を使ったとされる。長さ200m幅6m、橋脚は満潮時でも3m以上あった。1702年12月赤穂浪士一行が吉良上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺に向かった。

忠臣蔵当時の永代橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲劇の橋

1719年幕府財政窮地に伴い廃橋を決めるが町民衆の嘆願により橋梁維持の経費を町方ですべて負担することで存続を許された。しかし、1804年9月、富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず落橋。1400人の死傷者を出す史上最悪の事故となった。  永代と かけたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

永代橋落ちた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本発の鉄橋  

1897年(明治30年)道路橋としては日本初の鋼鉄製のトラス橋(部材を三角形に組む)が架橋。1904年には路面電車も敷設された。しかし、橋底には木材が使用されたため、関東大震災の時炎上、避難民に多くの焼死者を出した。

日本初の鉄橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帝都復興事業一号の橋

 関東大震災によって破壊された都市を再興するにあたり、隅田川にかかる6橋(相生、永代、清洲、蔵前、駒形、言問)の設計思想で大きく意見が分かれた。建築系技術者からは、実用物たる橋に美術品のごとき造形意図を持ち込むべきではなく6橋同一形状で統一すべきという意見が支配的だった。これに対し、復興局土木部長の太田圓三と橋梁課長の田中豊の二人は異なる考えを実践していく。震災復興事業の華』と謳われた清洲橋に対し、『帝都東京の門』と言われたこの橋は、ドイツのルーデンドルフ鉄道橋(映画のレマゲン鉄橋)をモデルにした。現在、勝鬨橋、清洲橋と共に国の重要文化財に指定されている。

モデルとなった、第二次大戦ライン川最後の橋。レマゲン鉄橋をめぐり独軍は米軍を引寄せ破壊する予定だった(映画にもなった)

災害が炙り出す共同体

2018年3月15日発行 地質時代第18号 1面

 

目に見えない財産

3月11日、東日本大震災から7年目を迎え、ニュースで沢山の特集が組まれた。家は復旧できても、目に見えない『ご近所付合い』の絆がなくなったことへの喪失感ははかりしれない。人は家がなくても生きていけるが、共同体がなくなると生きていけない生き物なのだろう。今後、日本は「首都直下型地震」はじめ各地で巨大地震が確実に起こると見られている。そのためのハードな防災対策の必要性は当然ですが、復興にあたり地域の人間関係という目に見えない財産を守ることも一体に考える必要があります。

『方丈記』の世界観

長明が隠遁した方丈(3m四方)のあばら家の復元 下鴨神社」

 

『方丈記』は1212年頃、鴨長明によって完成された随筆集ですが、平安時代末期から鎌倉時代初期の出来事が取り上げられている。その内容は、当時の災害と人間の記録でもあった。  「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」  このフレーズは、どこかで聞いたことがある。『方丈記』は都を襲った「安元の大火」1177年、「治承の辻風(竜巻)」1180年、福原遷都による混乱(1180年)、養和の大飢饉(1181年から82年)、元暦の大地震(1185年)の数々の災難を経験した長明がこの世の無情を著した。その歴史的背景には、貴族社会から武家社会にむけた混乱とそれを宗教的に結びつけた「末法思想」があった。 ゆく川の流れは絶えることがなく、しかもその水は前に見たもとの水ではない。玉を敷きつめたような都の中で、棟を並べ、屋根の高さを競っている、身分の高い人や低い人の住まいは、時代を経てもなくならないもののようだが、これはほんとうかと調べてみると、昔からあったままの家はむしろ稀だ。あるものは去年焼けて今年作ったものだ。またあるものは大きな家が衰えて、小さな家となっている。朝にどこかでだれかが死ぬかと思えば、夕方にはどこかでだれかが生まれるというこの世のすがたは、ちょうど水の泡とよく似ている。一時の仮の宿に過ぎない家を、だれのために苦労して造り、何のために目先を楽しませて飾るのか。その主人と住まいとが、無常の運命を争っているかのように滅びていくさまは、いわば朝顔の花と、その花につく露との関係と変わらない。あるときは露が落ちてしまっても花は咲き残る。残るといっても朝日のころには枯れてしまう。あるときは花が先にしぼんで露はなお消えないでいる。消えないといっても夕方を待つことはない。

無常への絶望か、価値観の転換か  

鴨長明の時代と現代は結構似ている。栄華を誇った東芝の挫折、「官庁の中の官庁」財務局の文書改ざんなど政治は乱れ、企業の生産第一主義はいたるところで破綻、人々の協力と共同による心の豊かさを求める時代を求め動いている。  災害が突きつける被害や傷は、流れる川のように避けることはできない。豪華な家が時と共に必ず廃れていくようなものだ。物質的な豊かさは儚く、頼りにならない。本当に価値あるものは、人と人とのつながり、栄華を競い合うのではなく貧しくても、共に助け合う心の豊かさこそ本当に価値あるものだ、と教えているように思う。

リサイクル都市 江戸のライフスタイル

2018年2月15日 地質時代第17号 2面

 

日々の食事は旬のものだけ

江戸の食生活は基本的に一汁一菜。米は精米したものを食べていた。魚は日本橋の魚河岸で、江戸湾で採れたもの、野菜は人形町の八百屋で、近郊で採れた旬の野菜を食べていた。下肥を使っていたので回虫の卵はあったが、香りと味は調味料を必要としないほど。また、精米なのでビタミン欠乏症になり脚気多く〈江戸患い〉と呼ばれた。

衣服はリサイクル時代

 今でも、日本橋堀留町や大伝馬、小伝馬町界隈は繊維業の店が多い。これは、江戸開府当時、徳川家康が、日本橋富沢町を古着屋の町として免許を与えたことに由来する。日本で古着が主流でなくなったのは1900年代豊田式自動織機が発明されてからだ。ファッション感覚は着物という形の中で色と模様でセンスを競っていた。紬、縞、格子、小紋などの幾何学模様が粋とされていました。色も西洋の原色ではなくデリケートな色合いが流行した。特に茶系統は人気役者の名前から路考茶、梅幸茶、芝翫茶、璃寛茶などがあった。

市松模様の着物

江戸とパリの上下水道比較

江戸は埋立地のため井戸は飲料に適さなかった。そこで地下に木の樋を埋め水道を作っていた。この配水管の総延長は150kmに及んでいた。この時代の水道としては世界最大の給水システムだった。下水はどうか?パリでは下水道を作りセーヌ川に垂れ流していた。市民はそのセーヌの水を飲んでいた。江戸には下水システムはなかった。その代わり農家の人が来て便所から汲み取りを行い、畑に撒いていた。長屋は共同便所なので大家に権利があり有料で、年間1両程度で売っていた。『店中の尻で大家は餅をつき』という川柳があったほどだった。また、表通りの商店より、裏長屋の職人のし尿のほうがよく効くので高かった。けちな商人より金銭に執着しない職人のほうが良いものを食べていたからだそうだ。ただ汚いものとして道やセーヌ川投げ捨てるパリよりも、資源としての価値を見出した江戸のシステムは実に先進的であった。

汲み取り風景

江戸上水システム

北陸豪雪 日本の積雪は世界一!!

2018年2月15日 地質時代第17号 1面

 

第10位:アメリカ、バッファロー市 年間降雪量240cm エリー湖の西、カナダとの国境沿いの都市。北極の気象パターンに近く、「湖水効果雪」という現象により積雪量が増大する。猛吹雪によって町全体が埋まってしまい、雪かき以外の活動はすべて停止する。  

第9位アメリカ、ロチェスター市 年間降雪量251cm オリタリオ湖の南に位置するロチェスターも「湖水効果雪」に影響される。1977年のグレート・ブリザード(時速96km)によって多くの死者が出た。  

第8位日本 秋田市 年間降雪量271cm 733年頃に築かれたと見られる城柵、秋田城を擁する秋田には、32万人以上の人々が暮らしている。1997年に中核市に指定された県庁所在地でもあるが、平均積雪量は1月137cm、2月107cmと紛れもない豪雪地帯だ。亜熱帯地域にほど近いことから大量の湿気がもたらされるため、降水量も多く、年間の66パーセントが雨か雪の日だ。

第7位カナダ、ザクネ市 年間降雪量312cm

第6位アメリカ シラキュース市 年間降雪量314cm

第5位カナダ ケベック・シティ 年間降雪量314cm

第4位カナダ セントジョンズ 年間積雪量332cm

第3位日本 富山市 年間降雪量363cm 立山黒部アルペンルートの名物はそびえ立つ雪の壁だ。富山市は富山県の県庁所在地であり、41.7万人が生活する。秋田と同じく、比較的穏やかな気候と湿度のお陰で、凄まじいほどの雪が降る。日本海に繋がる富山湾の側に位置するために、「湖水効果雪」にも似た積雪を見せる。

第2位日本 札幌市 年間降雪量485cm 本リスト中最大の都市。地球上で2番目の豪雪都市。

第1位日本 青森市 年間降雪量792cm 地球規模の豪雪地帯。八甲田山の高地の冷たい空気と青森湾、陸奥湾の水分が組合わさる結果だ。