コラム

永代橋落ちた 永代橋に刻まれた歴史

2018年3月15日発行 地質時代第18号 2面

 

現在の永代橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忠臣蔵の橋  

1698年8月、五代将軍綱吉の50歳の誕生日を祝し、現在より100m上流に作られた。監督は、関東郡代、伊奈忠順があたった。資材は、上野寛永寺造営の際の余材を使ったとされる。長さ200m幅6m、橋脚は満潮時でも3m以上あった。1702年12月赤穂浪士一行が吉良上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺に向かった。

忠臣蔵当時の永代橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲劇の橋

1719年幕府財政窮地に伴い廃橋を決めるが町民衆の嘆願により橋梁維持の経費を町方ですべて負担することで存続を許された。しかし、1804年9月、富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず落橋。1400人の死傷者を出す史上最悪の事故となった。  永代と かけたる橋は 落ちにけり 今日は祭礼 明日は葬礼

永代橋落ちた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本発の鉄橋  

1897年(明治30年)道路橋としては日本初の鋼鉄製のトラス橋(部材を三角形に組む)が架橋。1904年には路面電車も敷設された。しかし、橋底には木材が使用されたため、関東大震災の時炎上、避難民に多くの焼死者を出した。

日本初の鉄橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帝都復興事業一号の橋

 関東大震災によって破壊された都市を再興するにあたり、隅田川にかかる6橋(相生、永代、清洲、蔵前、駒形、言問)の設計思想で大きく意見が分かれた。建築系技術者からは、実用物たる橋に美術品のごとき造形意図を持ち込むべきではなく6橋同一形状で統一すべきという意見が支配的だった。これに対し、復興局土木部長の太田圓三と橋梁課長の田中豊の二人は異なる考えを実践していく。震災復興事業の華』と謳われた清洲橋に対し、『帝都東京の門』と言われたこの橋は、ドイツのルーデンドルフ鉄道橋(映画のレマゲン鉄橋)をモデルにした。現在、勝鬨橋、清洲橋と共に国の重要文化財に指定されている。

モデルとなった、第二次大戦ライン川最後の橋。レマゲン鉄橋をめぐり独軍は米軍を引寄せ破壊する予定だった(映画にもなった)