2016年12月

地質時代 2016年4月第7号

平成28年熊本地震

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今回の地震で亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、今もまだ、苦しい避難生活を送られている方々に、お見舞い申し上げます。

熊本地震の特徴は、第一、震度7が連続発生したこと。第二、86kmにわたる断層帯にそって広範囲に発生している事。第三、震度7が2回、6が5回、5が10回と大きな余震が続いていること。で、いずれも前例のない地震であり、正しい評価は、現段階では難しいようです。

地震の命名について

今回の地震は、「平成28年熊本地震」と気象庁が発表しましたが、気象庁の命名基準は、①陸域ではM 7.0以上震度5弱以上。②顕著な被害(全倒壊100棟程度以上)、③群発地震で被害が大きかった場合。名称の付け方は、「元号+地震情報に用いる地域名+地震」ですが、これとは別に政府が命名する場合があります。

気象庁命名「平成7年兵庫県南部地震」⇒政府命名「阪神・淡路大震災」
気象庁命名「平成23年東北地方太平洋沖地震」=政府命名「東日本大震災」
自然現象としての単なる地震ではなく、地震によって甚大な被害を蒙った事実を忘れないために「○○大震災」という名称は必要であるし、歴史にしっかり刻む必要があると思います。

地震の所轄機関はどうなっているのか?

  1. 気象庁(国土交通省外局):震度速報(震度3以上)、震源の情報、津波情報、各地の震度など
  2. 地震調査研究推進本部(文部科学省):行政施策に直結すべき地震の調査研究の責任体制を政府として一元的に推進するための機関。
  3. 地震予知連絡会(国土地理院):国の機関、大学等で進められる観測成果の集約と発表。
  4. 産総研地質調査所(経済産業省):地質調査のナショナルセンターとして地質情報の整備。

地震メカニズムについての機関は会計監査院あたりで交通整理すればもっと機能的になるかもしれない。他方で、災害対策にあたる機関もまた、自治体・自衛隊・警察・消防がその都度連携しているだけで、緊急物資の配分などSNSで各人が自然発生的に行っているのはいかがなものだろうか?地域コミュニティーの連携、情報集約と素早い初動活動のできる体制が望まれる。

関東地方の活断層と首都直下地震

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1. 関谷断層(那須塩原、塩谷・M 7.5)
2. 内ノ龍断層(栃木県西部・M 6.6 )
3. 片品川左岸断層(群馬県北部・M 6.7 )
4. 大久保断層(前橋、桐生、足利・M7↑)
5. 太田断層(桐生、太田、千代田・M6.9)
6. 長野盆地西縁断層帯(M 7.4~ 7.8 )
7-1深谷断層帯(高崎、東松山・M 7.9 )
7-2綾瀬川断層(鴻巣、伊奈、川口M 7 )
8. 越生断層(越生町・M 6.7)
9. 立川断層帯(青梅、立川、府中・M7.4)
10. 鴨川低地断層帯(鴨川、富山町・M7.2)
11. 三浦半島断層群(三浦半島中南部・M6.6)
12. 伊勢原断層(愛川町、伊勢原、平塚・M7 )
13-1塩沢断層帯(山北町、御殿場・M6.8)
13-2平山-松田北断層帯(開成町・M6.8)
13-3国府津-松田断層帯(大井町・M6.8)
14. 曽根丘陵断層帯(笛吹、甲府・M 7.3 )
15. 富士川河口断層帯(富士宮、静岡・M7.2)
16. 身延断層(身延、富士宮・M 7 )
17. 北伊豆断層帯(箱根、湯河原、伊豆M7.3)
18. 伊東沖断層(M 6.7 )
19. 稲取断層帯(河津、伊豆大島西方沖・M7 )
20. 石廊崎断層(M 6.9~ 7 )
21.糸魚川 -静岡構造線断層帯(M 7.7)

2012年東京都防災会議は「首都直下地震等による東京の被害想定」の報告書を発表していますが、発表当時はかなりインパクトがありましたが、5年もたつとすっかり忘れていました。今度の地震でもう一度記憶に焼き付け、できうる防災対策で備えましょう!

地質時代 2015年4月第6号

玉川上水今昔物語

江戸は一日してならず

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地質時代1号で、徳川家康は江戸入府に先立って、1594年~1654年に「利根川東遷」での関東平野の治水事業の実施を紹介しました。これに先立 つ1590年、家康は大久保藤五郎に水道の見立てを命じ、藤五郎は、小石川上水を作り上げたと伝えられています。その後、1629年には、井之頭池や善福 寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする神田上水が完成。南西部では赤坂溜池を水源として利用していました。

1609年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ロドリゴの見聞録)でしたが、3代将軍家光の時、参勤交代の制度が確立すると、人口増加に拍車がかかり、既存の水道では足りなくなり、新しい上水の開発が日程に上りました。

1652 年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立てました。工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、工事請負人は庄右衛門と清右衛門兄弟に決定。水道奉行に伊 奈半十郎忠治が命ぜられました。1653年4月4日着工し11月15日に羽村取水口から四谷大木戸まで素掘りが完成。全長43km、高低差92mの緩勾配 です。180m/日の驚異的進捗率です。

翌年6月には虎ノ門まで地下に石樋、木樋による配水管を敷設、江戸城はじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋一帯に給水しました。兄弟は褒章に玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

明治になると、末端の木樋に汚水が流入し、しばしばコレラが大流行するようになり、浄水場で原水ををろ過し、鉄管を通じて加圧給水する近代水道の建設が急務 となりました。1898年12月、玉川上水を導水路として、代田橋付近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を建設、神田、日本橋方面に給水を開始しました。1965年には、利根川の水が東京に導かれ、淀橋浄水場は廃止。玉川上水は導水路としての役割を終えました。1984年には、清流復活事業の一環で、昭島市の東京都下水道局多摩川上流再生センターで処理された再生水は、高井戸を経緯し、神田川に合流しています。

2012年、新宿区は、新宿御苑の北を走る国道20号線のトンネル上部に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」の供用を開始しました。水路の水源は、この地下トンネルの地下水をポンプアップして利用。ヒートアイランド現象の緩和にも期待されています。

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関東地方の活断層

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1.関谷断層
2.内ノ龍断層
3.片品川左岸断層
4.大久保断層
5.太田断層
6.長野盆地西縁断層帯
7-1深谷断層帯
7-2綾瀬川断層
8.越生断層
9.立川断層帯
10.鴨川低地断層帯
11.三浦半島断層群
12.伊勢原断層
13-1塩沢断層帯
13-2平山-松田北断層帯
13-3国府津-松田断層帯
14.曽根丘陵断層帯
15.富士川河口断層帯
16.身延断層
17.北伊豆断層帯
18.伊東沖断層
19.稲取断層帯
20.石廊崎断層
21.糸魚川-静岡構造線断層帯

地質時代 2014年11月第5号

浦安液状化判決の本質

10月8日と31日、浦安市で発生した東日本大震災での液状化被害の損害賠償裁判が、相次いで一審、住民側敗訴の判決が下されました。

8日の裁判では、三井不動産が1981年以降に行った分譲地に対するもので、判決は「住宅の販売時( 1981年当時)に液状化を予測するのは困難だった」と判断しました。また、三井不動産が研究者の報告をもとに、液状化に有効とされる工法をとっていたことも挙げ、「対策が不十分だったとは言えない」としました。

31日の裁判では、やはり、三井不動産が2003年~2005年にかけて分譲した土地に対するもので、判決は、「揺れる時間が数十秒の通常の地震が想定されていた」と指摘。「今回のように2分も続く地震は、当時の知見では予測不可能だった」として、業者側の責任を否定しました。
住民側にとって、まったく気の毒な判決となりました。判決の趣旨は、「当時は科学的に自然現象を予測できなかったのは、過失ではない。」ということであります。しかし、科学は常に発展しているとはいえ、自然現象が常に新しい課題を提起するのであって、決して科学が自然に追いつくことはないことは明白です。しかも、法律は自然科学のはるか後ろをゆっくりと歩いています。したがって、自然現象に起因する災害被害の行き着く先は「想定外」という聞きなれた言葉に収束していきます。今回の2例の判決の本質は、福島原発と同じ問題が提起されているように思われま
す。

現代社会において、日本人が初めて液状化現象を意識したのは、1964年の新潟地震でした。この時から、液状化を考慮した構造物設計指針の導入が始まりました。以下、概観します。

 

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これでも「想定外」は付きまとうでしょう。さらに火災や倒壊を考慮すると、暗澹たる気持ちになります。しかし、それでも、人々は立ち上がり、復興してきた姿を見るとき、本当の財産と防災は、地域住民の絆、共同体の力以外にないように思われます。

建築家の格言と作品

フランク・ロイド・ライト(1867~1859)

アメリカの建築家 代表作:旧帝国ホテル新館、カウフマン邸(落水荘)、山邑邸、ユニティ教会
若い時は、不倫や放火殺人に巻き込まれるスキャンダラスな人生。70歳代で代表作を作り上げた。長く生きるほど、人生は美しくなる。

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ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969)

ドイツの建築家 代表作:バルセロナ・パビリオン
20世紀モダニズム建築を代表する建築家。バルセロナチェアー(椅子)のデザインでも有名。
より少ないことは、より豊かなこと。
神は細部に宿る。

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ル・コルビュジエ(1887~1965)

フランスの建築家 代表作:サヴォア邸近代建築の五原則(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)を体現。
住宅は住むための機械である。

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アントニオ・ガウディ(1852~1926)

代表作:サクラダ・ファミリア
芸術におけるすべての回答は、偉大なる自然の中にすべて出ています。ただ、私たちは、その偉大な教科書を、紐解いていくだけなのです。・・・世の中に新しい創造などない、あるのはただ発見である。

ヴァルター・グロピウス(1883~1969)

代表作:メットライフ・ビルディング
専門家とは、いつも同じ間違いを繰り返す人たちのことである。

ルイス・カーン:

創造とは、逆境の中でこそ見出されるもの

ルイス・サリバン:

形式は機能に従う

フンデルトヴァッサー:

直線に神は宿らない
自然に存在するのは曲線のみで、定規で引いたような直線を徹底的に拒否した。

地質時代 2014年10月第4号

9月27日11時52分、秋の登山客で賑わう御嶽山が突如噴火、12名が死亡した。生存者の話では、山頂近くにいた人々は、山小屋や神社の庇に避難する1~2秒差で生死を分けたという。アッという間に火山灰が積もり、呼吸困難に。また、降ってきた石で頭が陥没した人、子供の「苦しいよう」という言葉に父親がはげます声が、やがて聞こえなくなるなど、まさに地獄絵が展開された。

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翌28日(日曜日)、火山噴火予知連絡会拡大幹事会が開催され、御嶽山噴火の検討が行われた。メンバーは国立大学、国土地理院、気象庁、国交省など。検討結果は、水蒸気噴火であったことが確認された。また、噴火7分前に山体が膨張する現象、火山性地震などが観測された。また9月上旬に一旦、火山性地震が増加したがその後は沈静化しており、火山課長は「前兆をとらえ予知するのは難しかった」と語った。

世界の活火山の7%が日本に集中している。ちなみに、活火山の定義は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義され現在110ある。さらに、2009年6月には、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び社会的影響を踏まえ、「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要のある火山」として47火山が火山噴火予知連絡会によって選定された。これらの火山では、地震計、傾斜計、空振計、遠望カメラ、GPS観測による24時間の観測体制がとられいる。御嶽山はこのひとつ。1~ 2秒で生死を分けたのであれば、7分あれば警報やサイレンでなんとかならなかったのだろうか?

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米国土木学会選定の20世紀10大プロジェクト『関空』のギネス級地盤沈下

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関西空港は、アメリカ土木学会の選定する20世紀の10大プロジェクトのうちの空港部門に選定されている。橋梁部門ではゴールデンブリッジ、高層ビル部門ではエンパイヤーステートビルの名があげられている。それだけすごい施設であるが、圧密沈下もすさまじく、建設以降最大14m以上も沈下しており、沈下量は少なくなっているが、まだ収まっていない。厄介なのは、Maと表示された海成粘土層でMa 1(最下部)~Ma 13(最上部)まで、13層の粘土層が500m近くまで分布し、各層で空港島の荷重を受け沈下している。Ma 13はサンドパイルの打設で沈下は収束したが、それはせいぜい20m程度。50年後も『関空』残っているのか?

 

地質時代 2014年9月第2号

広島市土石流災害の悲劇!

8月20日に発生した、広島市の土砂災害は、死者72名、行方不明者2名(8月29日現在)という悲劇をもたらしました。

国土交通省の調べでは、全国に土砂災害の危険個所に指定されているのは525,307個所にものぼるとのこと。今回被災した地区は警戒区域どころか危険個所の指定もなかった。行政は危険性を認識しつつも、対策工事を行う義務の発生に逡巡があったようだ。また、警戒個所としてハザードマップにのれば、不動産価格に影響があることもあり、住民説明での確認も必要になってくる。安全安心よりも経済を優先するこのような経済的背景が、被害を大きくした原因ではなかったのか?

 

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上2枚の写真は、グーグルストリートヴューで見 た安佐南区八木3丁目付近の土石流前の町並み。奥 の山並みが不気味に住宅地を睥睨しているが、日本 のどこにでもありそうな雰囲気。もう一枚は、なん と住宅新築中の工事現場。被災の有無は分らない が、丘陵地の危険地域であることはまちがいない。 中の写真は、八木3丁目の被災状況。原形がまった くわからない。時速40kmで数千~十万トンの土 砂と水と材木と岩石が襲い掛かってきた。

下の写真は、安佐南区の八木地区と緑井地区の空中写真。 阿武山に裾野から這い登るように宅地開発が進んで いることがわかる。土肌が出ているところが今回、 土砂崩れを起こした個所。こうして、高い視点でみ ると如何に危険であったのか、いや、現在も危険で あることに戦慄を覚える。

われわれ地質調査業者 の責任は、このような高い視点で危険を喚起し続けることかもしれない。 ご冥福をお祈りいたします。

 

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江戸トレジャーハンターで一攫千金・・・もとい、中央区へ提出へ

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左の写真は、最近オープンした「コレド日本橋」の旧東急デパート新館跡地から発掘した18世紀中ごろの商家の遺跡です。小さくてわからないが、石組みの下水、木組みの下水、井戸、穴蔵、など遺構が多数出土した。とりわけ注目すべきは木組みの頑丈な穴蔵です。穴蔵とは、火事が多かった江戸の町で、頑丈な金庫がない時代、貴重な財産を地下に穴を掘って埋めることで守っていたとのこと。写真でみると、江戸時代の建物は現状地盤よりかなり低いところにあります。これは、度重なる火事や地震、そして空襲での瓦礫が堆積したもので、今回の大規模な再開発がないかぎり財宝が埋もれたままになっている可能性は非常に大きいと思います。

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右写真は八丁堀2丁目の遺跡の便所跡から出土した天保一分金(時価32,000円也)

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左図は、中央区でこれまで発掘された遺跡の地図です。ほとんど江戸時代の遺跡になります。これらは、建設工事の根伐り工事が契機に発見されることが多いようです。掘削工事でもしないと容易と発見できません。今、都心のビルの老朽化が進み、都からは厳しい耐震基準が指導されています。ビルの解体建て替えはこれからが本番。建設会社は江戸トレジャーハンターになるかもしれません。また、日本橋小伝馬町では伝馬町牢屋敷が発掘されました。安政の大獄で吉田松陰や橋本左内らが投獄、その他、平賀源内、高野長英、渡辺崋山、佐久間象山など歴史上の有名人が入牢してました。

 

地質時代 2014年8月第2号

26歳の若き土木技術者が80年前に創造した世界に類を見ないドーム型防波堤

稚内港北防波堤ドーム

1936年(昭和11年)稚内築港事務所の26歳の技手、土谷実(1904~1997)が設計。稚内特有の強風とサハリンからの高波を防ぐために考案された、庇の付いた防波堤です。土谷は築港事務所の先輩技術者である平尾俊雄から指導を受け、平尾がフリーハンドで描いたものを具体化しました。

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事実の把握、そして歴史に学べ

この構造物は、見栄や利権や営利からではなく、強風や高波から人々を守る目的で設計されました。

平尾はこの北防波堤設計にあたり、土谷に次のことを命じました。波の高さと基礎となるべき当時は主流の木杭の腐食調査です。その結果、木杭は虫に食われ役に立たないこと、高波の高さは24尺(7.27m)を優に超えることが判明しました。
そこで、平尾は防波堤に天蓋を設け、コンクリート杭を使う決断をしました。全体の形状は越波の観察からイメージしたものです。

土谷は途方に暮れました。いまだかつて経験したことのない設計でした。彼が採用したのは、彼が経験したコンクリートアーチ橋とギリシャ・ローマ建築の資料でした。「歴史に学べ」という格言の重さを再認識しました。

江戸城無血開城は生産力の発展と新しい人間関係の産物だった!

大政奉還と勝・西郷会談

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明治維新は、古今東西の革命の例にもれず戦争の産物でした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、野洲梁田の戦い、市川・船橋戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、東北戦争、函館戦争など無数の戦いが全国で戦われました。前後して1868年幕府の血を求める官軍の行進が江戸に向かった。

当時の江戸は100万都市であり、日本中のモノの基地であった。江戸との物流が地方の生命線でもあった。しかし、日本列島の地形は、山と谷、川と海に分断させられ、その結果幾多の藩が生まれ、戦国時代には派遣を争った。江戸時代になって、農業生産を飛躍的に発展させる土木工事が行われ、農民たちは協力して土木工事に参加し、農村での共同体意識は格段に高まっていった。

さらに、広重の東海道五三次をみるとそこには各宿場の風景と生き生きとした人々の姿がすべての絵に描かれている。出発の日本橋では様々な職業の人が橋を覆い隠すよう歩いている。終点の京都三条大橋でも同様である。生産力の発展が日本の地形的分断性を物流によって克服させ、江戸を単なる幕府の居城から日本の中心という意識がすべての日本人に共有されていたことが伺える。そのような意識が勝と西郷をとらえ、江戸の壊滅は地方の壊滅に繋がると判断し、無血開城に繋がったように思う。

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地質時代 2014年7月第1号

徳川家康の大土木工事が関東平野を作り、江戸260年の土台を作った!

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利根川東遷

江戸湾に注いでいた利根川の流路が現在の形になったのは、近世初頭の約60年間( 1594年~ 1654年)にわたって行われた利根川東遷と呼ばれる改修工事の結果です。その目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を促進すること。舟運を開いて、東北と関東との輸送体系を確立することにありました。この工事によって、現在の霞ヶ浦は、川が運んできた土砂のために河口部分がせき止められ大きな湖となりました。現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。

江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。
江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。

その治水と開拓の統括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。

その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り、小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。

部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。(輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。

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広重の江戸百景より、箕輪、金杉、三河島あたりが丹頂鶴が遊ぶ湿地帯だったことが伺える。

対応するのが紀州流と呼ばれる治水技術で、強固な堤防によって河川を切り離して小氾濫も許さない考え方で、土地を目一杯活用できますがいったん破堤すると被害が大きい欠点があります。畿内では人口密集が早い時代から始まっていたために土地を目一杯使える手段が採用されていたのかもしれません。

利根川治水でも1629年に作られた見沼貯水池が1700頃に農地拡大の求めに応じて農地化され、はるか北から見沼用水や葛西用水が引かれて、かっての入間川(荒川)と現在の江戸川の間の広大な土地は人工的な水路によってコントロールされるようになります。明治以降では欧米技術が導入されていますが、紀州流の考え方を近代技術で強化したものともいえます。河川と周辺環境が切り離されてしまう欠点がありますが、最近ではそうならないような工夫もなされているようです。

利根川東遷は、大穀倉地帯をもたらした!

利根川スペック

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

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約1000年前

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

利根川洪水の歴史

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地質調査会社の選び方

ネット検索「地盤調査」では、「地盤調査専門会社」ではなく、「地盤改良工事会社」の地盤調査が上位ヒットします。なぜ、そうなってしまったのか?歴史をたどってみます。

地震年代地震名制度制定年代法律名
1923年関東大震災1924年市街地建築法改正(柱を太く、地震力)
1948年福井地震1950年建築基準法制定(地震に対応する強度)。
東京丸の内の第二電話局の地盤調査で初めて標準貫入試験を実施。
  1952年建築基礎構造基準(日本建築学会)
1964年新潟地震1971年建築基準法改正(木造にコンクリート布基礎を規定)
1978年宮城県沖地震1981年新耐震設計法(地震力に対する強度改正)
1995年阪神・淡路大震災2000年建築基準法改正(地盤調査の義務化)
  2001年品確法性能表示制度スタート
2011年東日本大震災  

 

1923年の関東大震災は地盤を科学的に解明するきっかけとなりました。復興庁が初めて組織的計画的に地質調査をはじめました。戦前の地質調査担当者は内務省などに籍を置く公務員が多かったようです。地盤調査の誕生は公共的必要性によるものです。当時は大地震から人間を守るという公的利益は、商業的利益とはあいいれないものだったからです。

終戦後の10年間は、建設省土木研究所、運輸省港湾技術研究所、国鉄鉄道技術研究所が地質調査の技術確立に大きな役割を果たしました。これらの研究所の技術発展とともに民間の地質調査も発展してきました。このような様々な研究の土台には、地質調査技術者の経験と技術は不可欠なものとしてありました。そしてそれらは民間の地盤調査会社が担うことになります。

1964年の新潟地震によって、液状化現象が注目され始め、様々な研究が開始され、地盤調査は広く浸透していくことになりました。

2000年までは、地盤調査専門会社は、主に官公庁の土木工事、建築工事、民間のビルやマンションの支持杭のための地盤調査を受注し発展してきました。この場合、ボーリング地質調査が主体でした。また、スウェーデン式サウンディングは、ボーリング地質調査の補完として実施されていました。

2000年の地盤調査の実質義務化と2001年の品確法制定により、戸建て住宅の地盤調査が本格化することになりました。飛躍的に増加した需要のために、地盤調査専門会社のスウェーデン式サンディング調査から、地盤改良会社によるスウェーデン式サウンディング調査が発展成長してきました。その要因としては、地盤調査費に比べ地盤改良費の金額が大きく、地盤調査費をサービスしても改良工事を受注しやすくなることにメリットを見出したからです。こうして、地盤調査が地盤改良の「おまけ」になってしまい、その公共性が利潤第一主義によってのみこまれることになりました。

さらに、地盤調査会社の体質がこのような現象に拍車をかけました。その体質とは、解析技術部門と現場調査部門の分割です。それは、高度経済成長期の終わりによって、もたらされました。長引く不況が現場調査部門を分割しなければ生き残れない状況が生まれたからです。現在ではほとんどの地盤調査会社は現場部門を持たず、協力会社、下請会、一人親方に依存しています。解析技術と現場技術が分断されることによって、現場部門は仕事を切らさないために価格競争を展開します。そして地盤改良会社が、スウェーデン式サウンディングを独占していきました。

建設物価2015年8月号のスウェーデン式サウンディングの単価は4,540円/mです。1現場5m×5ヵ所の標準的調査では25m×4,540円/m=113,500円になりますが、現状は、1現場18,000円~25,000円が相場のようです。そして、この調査費の格差を覆い隠すのが、地盤保険とかセカンドオピニオンと言われるものです。

地盤調査には、経験を積んだ技術者が必要です。現場の自然環境の観察、土の色、水位、先端から伝わる感覚、現場だけでなく、参考文献の学習、地学や土質力学の基礎的知識をもった一人の技術者によって分析判断されます。それゆえ地質調査の技術者は、フォアマンと呼ばれます。第一観察者という意味です。彼は、自分のもてる知識と経験でその現場を観察する最初の人間としての使命感と誇りをもって仕事に取組みます。日本で地盤調査が生まれた公共的役割とそれへの誇りが技術を磨いてきたからです。

ところが、最近のSDSという調査では現場での判断をさせず(現場の人間はどういう地盤かわからず)電波でデータを飛ばして、そこで判断するシステムだそうです。それは、もはや技術者ではなく、機械を使う作業員でしかありません。

たとえば、現場で、地盤調査技術者が、自分の感想や判断をいう。現場監督がそれを聞いて基礎施工時の留意点を確認する。このコミュニケーションこそ良い品質を保証する土台であると考えます。私たちは、そのような会社を目指しています。