2018年2月15日 地質時代第17号 2面
日々の食事は旬のものだけ
江戸の食生活は基本的に一汁一菜。米は精米したものを食べていた。魚は日本橋の魚河岸で、江戸湾で採れたもの、野菜は人形町の八百屋で、近郊で採れた旬の野菜を食べていた。下肥を使っていたので回虫の卵はあったが、香りと味は調味料を必要としないほど。また、精米なのでビタミン欠乏症になり脚気多く〈江戸患い〉と呼ばれた。
衣服はリサイクル時代
今でも、日本橋堀留町や大伝馬、小伝馬町界隈は繊維業の店が多い。これは、江戸開府当時、徳川家康が、日本橋富沢町を古着屋の町として免許を与えたことに由来する。日本で古着が主流でなくなったのは1900年代豊田式自動織機が発明されてからだ。ファッション感覚は着物という形の中で色と模様でセンスを競っていた。紬、縞、格子、小紋などの幾何学模様が粋とされていました。色も西洋の原色ではなくデリケートな色合いが流行した。特に茶系統は人気役者の名前から路考茶、梅幸茶、芝翫茶、璃寛茶などがあった。
江戸とパリの上下水道比較
江戸は埋立地のため井戸は飲料に適さなかった。そこで地下に木の樋を埋め水道を作っていた。この配水管の総延長は150kmに及んでいた。この時代の水道としては世界最大の給水システムだった。下水はどうか?パリでは下水道を作りセーヌ川に垂れ流していた。市民はそのセーヌの水を飲んでいた。江戸には下水システムはなかった。その代わり農家の人が来て便所から汲み取りを行い、畑に撒いていた。長屋は共同便所なので大家に権利があり有料で、年間1両程度で売っていた。『店中の尻で大家は餅をつき』という川柳があったほどだった。また、表通りの商店より、裏長屋の職人のし尿のほうがよく効くので高かった。けちな商人より金銭に執着しない職人のほうが良いものを食べていたからだそうだ。ただ汚いものとして道やセーヌ川投げ捨てるパリよりも、資源としての価値を見出した江戸のシステムは実に先進的であった。