コラム

ローマ帝国と秦帝国の道路の歴史『猿百匹の現象』

地質時代第8号 平成29年5月6日発行 1面

 

 英国の科学史家ジョセフ・ニーダム(1900-1995)は『紀元の前後数世紀における世界で、一つはイタリア半島の一角(古代ローマ)に、もう一つは中国で黄河の山西山脈の屈曲部あたり(長安)に、それぞれ(都市の)中心部から樹状に延びる道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった』と記している。  

 古代ローマの道路網は「すべての道はローマに通ず」のことわざに名高い、BC.312のアッピア街道の建設からはじまりトラヤヌス帝(98-117)時代には総延長29万キロ、主要幹線8万6千キロ(現在の米国は9万キロ)であった。道路のネットワークとしての機能を創造したのはローマ人であった。その目的は、軍隊の配置、役人の公用、生産物の輸送、民間人の移動であった。  

 秦の始皇帝の道路網は、始皇帝が燕・韓・趙・魏・斉・楚(六国)を征服した翌年のBC.220に開始された。皇帝のみが通る道で「馳道」と呼ばれた。「馳道」は秦の首都咸陽を中心にして諸侯列国の首都を連接し、さらに全国に延びるものであった。その延長は7481キロとローマの十分の一であったが、その建設期間はわずか10年ほどであった。その目的は、全国統一と六国の貴族の復活の阻止、六国の財宝を咸陽に輸送すること、阿房宮ほか700ヶ所の宮殿建設の資材運搬をするためであった。もっぱら皇帝の私利私欲のための「馳(ち)道(どう)」であった。

 ローマの歴史1000年に対し、秦はわずか40年の背景には、道路をいかに使うのかに大きな差が生じたようである。(参考:中央新書 道路の日本史 武部健一著より)  そこで、最初のニーダムの問題提起『~道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった。』の一節でふと頭をよぎったのが『百匹目の猿現象』である。これは、宮崎県串間市の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られるようになったという現象である。ウィキペディアによると、この現象に対して、「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」(船井幸雄の見解)という見解があり、もう一つは、「実際には存在しない現象で、疑似科学に分類される」(ウィキペディアの立場)というものである。この二つの見解は相反するようで実は同じ観念によって支配されている。前者は「そうあってほしい」という願望であり、後者は「そんなことは証明されえない」という思惑である。私には、両者とも同じ意見に聞こえてくる。本来ニホンザルの主食は果実、草食の樹上性のものであった。イモを食いだしたのは、戦後の食糧難の時代であり、森林伐採と都市化が進み、サルとて例外ではなかった。畑のイモはそれに変わるものだった。樹上のものは洗わずとも食えた、しかし畑のものは土だらけである。洗うのは当然ではないだろうか?どこのサルも食糧難、どこのサルも畑に目をつける、土がつけば洗う。つまりは、「戦後の食料難の時代が生み出したもの」というのが私の見解である。道路も同じ、「天下統一という歴史時代が生み出したもの」これが「何の関連もなく広がった」理由ではないだろうか?