地質時代

地質時代 2014年7月第1号

徳川家康の大土木工事が関東平野を作り、江戸260年の土台を作った!

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利根川東遷

江戸湾に注いでいた利根川の流路が現在の形になったのは、近世初頭の約60年間( 1594年~ 1654年)にわたって行われた利根川東遷と呼ばれる改修工事の結果です。その目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を促進すること。舟運を開いて、東北と関東との輸送体系を確立することにありました。この工事によって、現在の霞ヶ浦は、川が運んできた土砂のために河口部分がせき止められ大きな湖となりました。現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。

江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。
江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。

その治水と開拓の統括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。

その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り、小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。

部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。(輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。

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広重の江戸百景より、箕輪、金杉、三河島あたりが丹頂鶴が遊ぶ湿地帯だったことが伺える。

対応するのが紀州流と呼ばれる治水技術で、強固な堤防によって河川を切り離して小氾濫も許さない考え方で、土地を目一杯活用できますがいったん破堤すると被害が大きい欠点があります。畿内では人口密集が早い時代から始まっていたために土地を目一杯使える手段が採用されていたのかもしれません。

利根川治水でも1629年に作られた見沼貯水池が1700頃に農地拡大の求めに応じて農地化され、はるか北から見沼用水や葛西用水が引かれて、かっての入間川(荒川)と現在の江戸川の間の広大な土地は人工的な水路によってコントロールされるようになります。明治以降では欧米技術が導入されていますが、紀州流の考え方を近代技術で強化したものともいえます。河川と周辺環境が切り離されてしまう欠点がありますが、最近ではそうならないような工夫もなされているようです。

利根川東遷は、大穀倉地帯をもたらした!

利根川スペック

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

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約1000年前

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

利根川洪水の歴史

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