2018年02月03日

平成30年(2018年)発行 地質時代第16号 2面

宝暦治水工事(事件)を描いた文学

 

杉本苑子「孤愁の岸」

「孤愁の岸」は、宝暦治水工事と呼ばれる江戸時代に木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川の治水工事を命じられた薩摩藩の激闘を描いた小説で、主人公は薩摩藩の工事責任者である家老平田靭負(ゆきえ)です。 宝暦治水工事は、1754年宝暦4年から5年にかけて、木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曾三川の洪水を防ぐために行われた治水工事です。 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。 1753年(宝暦3年)12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。  同年4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。幕府はさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。その結果、慣れない土地での過酷な労働の為、病死する人も続出した。 「孤愁の岸」では「屠腹した者50名、病死者202名」と書かれている。こうした非常な困難の中でも、薩摩藩士は、ひたすら辛抱し工事を続行した。そして、ついに工事開始の翌年宝暦5年5月にはすべて工事が完了した。工事の出来栄えは素晴らしく、工事検分にあたった幕府役人からは賞賛の声があがった。工事が終わった藩士たちは、薩摩または江戸に帰っていく。その早朝、平田靭負は、現地の総指揮所であった美濃大牧の役館で、割腹した。そして、「孤愁の岸」は、平田靭負の遺骸が、船に載せられ木曾川を下るところで終わる。 辞世の句「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」多大な犠牲への悔悟の情を隠しているように思う。

平成30年(2018年)1月15日発行 地質時代第15号

草津白根山噴火と歴史を変えた噴火

23日に噴火した群馬・長野県境の草津白根山の火口は、従来警戒を強めていた「湯釜」ではなく、気象庁が3000年間も噴火していないと見ていた2キロ南の「鏡池」付近だった。火山活動の事前の現象もなく、まさに寝耳に水の災害。自衛隊員一名が亡くなられたが、他の隊員を庇って噴石に当たったようです。ご冥福をお祈りすると同時に献身的な行動に敬意を表します。  火山噴火は大きな災害です。噴火によって歴史が変わった事実を調べてみました。

 

1.7万4千年前 インドネシア北スマトラ州 トバカルデラの世界最大級の大噴火 

インド、パキスタン、中国にも火山灰が降り注いだ。グリーンランドの氷床コアからも検出。 寒冷化は6000年続き、ヴュルム氷期に突入した。この噴火と同時期に、ヒトDNAの多様性が著しく減少する「ボトルネック(遺伝子多様性減少)」が見られることから、この噴火で当時の人類の大半が死滅したという『トバ・カタストロフ理論』が生まれた。

 

 

2.紀元前1628年 ギリシャ エーゲ海キクラデス諸島南部サントリーニ島 

海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)によって30m級の津波によってクレタ島で栄えたミノア文明が打撃を受け衰退の原因となった説がある。また、寒冷化によって中国の夏王朝滅亡の要因説もある。プラトンのアトランティス伝説のモデルとなった。

 

 

 

3.紀元79年 イタリア ヴェスヴィオ火山 

の都市ポンペイ(人口2万人)が厚さ7mの軽石に埋没した。

 

 

 

 

 

 

 


4.紀元535年 クラカタウ(インドネシア) 

この巨大噴火による気候変動が、東ローマ帝国の衰退、ペストの蔓延、ゲルマン民族の大移動、マヤ文明の崩壊の発端となったとBBCのドキュメンタリーで放映された。

 

 

 

5.紀元1783年 ラキ火山(アイスランド) 

噴火によって1億2千万トンの有毒な二酸化硫黄を含んだ火山灰がヨーロッパやアメリカ大陸を覆った。翌年には寒波が押し寄せフランスの植民地であったアメリカ南部が凍りついた。食料不足が深刻化し、フランス革命の原動力になったと言われている。

平成29年12月15日発行 地質時代第15号 2面

 

 

 

「黒部の太陽」 1968年 監督 熊井啓 音楽 黛敏郎製作 三船プロダクションと石原プローモーションそして宇野重吉の民藝の全面協力、人件費は500万円。

トンネル工事のシーンが多いが、再現セットが愛知県豊川市の熊谷組の工場内に作成された。出水を再現する420トンの水タンクもあった。出水事故があり、石原裕次郎他数人が負傷した。 この時の撮影は、切羽(トンネル掘削の最先端箇所)の奥から、多量の水が噴出する見せ場であった。水槽のゲートが開かれると、10秒で420トンの水が流れ出し、役者もスタッフも本気で逃げた。三船は、水が噴出する直前に、大声で「でかいぞ」と叫び、裕次郎らと走るが、そのときの必死の姿をカメラがとらえていたので、撮影は成功した。監督の熊井は、もし、三船が恐怖のあまり立ちすくんでいたら、撮影も失敗で、死傷者も出たかもしれないと回想している。大洪水の中でも仁王立ちとなって演技をした三船の姿が、30年以上たった今も瞼に焼き付いていると語った。

 

 

 

 

 

「日本沈没」 1973年 2006年 原作 小松左京

地球物理学者・田所雄介博士は、地震の観測データから日本列島に異変が起きているのを直感し、調査に乗り出す。深海調査艇「ケルマデック (Kermadec)」号の操艇者・小野寺俊夫、助手の幸長信彦助教授と共に小笠原諸島沖の日本海溝に潜った田所は海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見する。異変を確信した田所はデータを集め続け、一つの結論に達する。それは「日本列島は最悪の場合2年以内に、地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈没する」というものだった。 最初は半信半疑だった政府も紆余曲折の末、日本人を海外へ脱出させる「D計画」を立案・発動する。しかし、事態の推移は当初の田所の予想すら超えた速度で進行していた。各地で巨大地震が相次ぎ、休火山までが活動を始める。精鋭スタッフたちが死に物狂いでD計画を遂行し、日本人を続々と海外避難させる。一方、敢えて国内に留まり日本列島と運命を共にする道を選択する者もいた。 四国を皮切りに次々と列島は海中に没し、北関東が最後の大爆発を起こして日本列島は完全に消滅する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2012」 2009年 監督 ローランド・エメリッヒ 2009年

インドの科学者サトナムは、地球内部が加熱され流動化が進んでいることに気が付き、数年後に地球的規模の地殻変動により大破局が起きることを突き止める。科学顧問のエイドリアンから世界の終末を伝えられたアメリカ大統領のウィルソンは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、日本、カナダの首脳に事実を報告。先進国は極秘裏にチョーミン計画を実行し、世界各地の歴史的な美術品を後世に残すために、密かに偽物とすり替え運び出し始めた。やがて、先進国が極秘裏に進めていた「ノアの箱舟」計画こそが生存への唯一の道だと知った主人公らは、ノアの箱舟の建造地である中国に向かう。

地質時代 平成29年12月15日発行 第15号1面

トランプ大統領の首都移転宣言で大激震が起こったエルサレム。グーグルアースで覗くと、大きな川もなく岩盤質の地形になぜこんな宗教都市ができたのか調べてみた。  この地域は丘陵地帯で標高800mほど。雨季(冬)と乾季(夏)に別れ、年間降水量は600㎜程度の乾燥地帯。黄土色の荒野である。ここにキリスト教の『聖墳墓教会』=キリストが磔にされたゴルゴダの丘、ユダヤ教『嘆きの壁』=ローマ帝国に従属したユダヤのヘロデ王の神殿、イスラム教『岩のドーム』はムハンマドが立ち寄ったとされる岩が隣り合って存在している。  『旧約聖書』の『サムエル記』によれば、ユダヤのダビデ王はエルサレム攻撃の際「エプス人(先住民)を撃つものはすべて[ツィンノール]をもってせよ」と言ったと書かれている。これは、「ギボンの泉」と呼ばれる湧水で、今でも湧き出ている。この水源に至る地下トンネルから攻めあがったのかも知れない。カナン人は地下に隠した水源を要塞で覆って隠していた。その竪穴は発見者の名をとって「ウォレン・シャフト」と呼ばれている。  似たような場所がパレスチナ自治区にもあり「ギベオンの水槽」と呼ばれている。これは、粘土質の地盤に直径11m、深さ11mの穴を掘り、周りにらせん状の階段が作られている。  三代目ビゼキア王の時代、アッシリアが攻め込んできた。このアッシリアの脅威に対抗するため、ギホンの泉の水を、城内のシロアムの池まで引くトンネルを完成させた。ギホンの泉は、ダビデの町と向かい側のオリーブ山の間を分かつギドロンの谷にあり、その場所はダビデの町の崖下にあたる。当時、ギホンの泉からあふれ出る水は地表のシロアムの水路を流れてシロアムの池に流れ込んでいた。この水源を外敵から守るためにトンネルを掘りぬいたのである。 ヒゼキア王のトンネルは約2700 年前に建造された、現存する世界最古の水道施設の一つである。全長532m、勾配は0.4%、両側から掘りはじめ、北から1/3あたりで接合している。接合部では、両側から声を出しながら方向を調節したのか、坑道が左右にギザギザと屈曲している。このトンネルは現在も健在で、ギホンの泉は下流のシロアムの池に向って流れ続けている。 この豊富な地下水なくしてエルサレムは歴史に刻まれる都市にはなりえなかった。日本人なら井戸の神様と称えるところだ。しかしフェニキア人の商才、古代ギリシャ哲学の一元論、エジプトの一神教が混ざり合い、古くはエジプトやローマ帝国、イスラム帝国に揉まれ、英国の三枚舌外交や米国のユダヤ資本(ロスチャイルドやゴールドマンサックス)に利用され続けるためには宗教を口実にしなければ存在できない都市がエルサレムなのだろう。