コラム

江戸城無血開城の歴史的経済的社会的背景

地質時代 第2号 2014年8月 二面

大政奉還と勝・西郷会談


  明治維新は、古今東西の革命の例にもれず戦争の産物でした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、野洲梁田の戦い、市川・船橋戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、東北戦争、函館戦争など無数の戦いが全国で戦われた。前後して1868年幕府の血を求める官軍の行進が江戸に向かった。
 当時の江戸は100万都市であり、日本中のモノの基地であった。江戸との物流が地方の生命線でもあった。しかし、日本列島の地形は、山と谷、川と海に分断させられ、その結果幾多の藩が生まれ、戦国時代には覇権を争った。江戸時代になって、農業生産を飛躍的に発展させる土木工事が行われ、農民たちは協力して土木工事に参加し、農村での共同体意識は格段に高まっていった。
 さらに、広重の東海道五三次をみるとそこには各宿場の風景と生き生きとした人々の姿がすべての絵に描かれている。出発の日本橋では様々な職業の人が橋を覆い隠すよう歩いている。終点の京都三条大橋でも同様である。生産力の発展が日本の地形的分断性を物流によって克服させ、江戸を単なる幕府の居城から日本の中心という意識がすべての日本人に共有されていたことが伺える。そのような意識が勝と西郷をとらえ、江戸の壊滅は地方の壊滅に繋がると判断し、無血開城に繋がったように思う。

広重 東海道五十三次 日本橋

広重 東海道五十三次 京都三条大橋