2017年10月15日発行 地質時代第13号 2面
聖徳太子から福沢諭吉へ
聖徳太子の業績は、冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣などが上げられますが、歴史研究の発展により、実はこれらは、太子一人の実績ではないことが明らかになってきたようです。そこで教科書では、聖徳太子の表記を止め、厩戸王と表記するようになったようです。しかし、この時代の天皇の摂政として存在していたのは確かなようですが1万円札の肖像としての復帰は難しいかも知れません。
仏教による国づくりの象徴としての聖徳太子
当時の日本が国づくりを進める中で、大陸の宗教や立法、身分制度を参考にしたのは間違いない。しかし、それは自然に入ってくるものではなく、明確な目的意識と行動を必要としたはずだ。それを取り入れた英雄こそ、聖徳太子的な人物だったのではないだろうか?(もし、ナポレオンが生まれてこなかったら、歴史は別のナポレオンを生み出した)
大工の神様 聖徳太子
11月22日は「大工さんの日」です。11月が「技能尊重月間」、十一を合せると「建築士」の「士」の字になること。22日が聖徳太子の命日(622年2月22日)さらに11は二本の柱、二は土台と梁と見なして「大工さんの日」としたようです。 孟子の教えに「規矩準縄(きくじゅんじょう)」という言葉があります。物事や行動の基準、手本を正しくすることを意味するとのこと。 ここから発して大工の伝統技術に規矩術(きくじゅつ)というものがあり、大工の数学のようなもので、「規」とは「円を描く」、「矩」とは「方向、直角」、「準」とは「水平」、「縄」とは「垂直、鉛直」ということを意味し、家造りの最も基本となるキーワードです。更に、大工道具のことも指しているそうで、『規=定規』『矩=差し金』『準=水盛り』『縄=墨縄』となります。 この中の『矩=差し金』を日本に持ち込んだのが聖徳太子とのことです。 法隆寺のような建造物を初めて日本に作るためには、道具と技術の伝承は絶対的に必要だったことは間違いない。 道具は現物でよいが、技術はどうしたのか?聖徳太子は太子講といって、大工を集めて建築の講義のようなものをしていたそうです。 当時の政治家はテクノロジーの優れた伝承者でもあったようです。