コラム

地質時代 第11号 平成29年8月発行

治水の神様禹王と田中丘隅

異常気象による局地的豪雨や台風の頻発により、日本の土木事業、なかでも治水事業の重要性がますます増してきている。人類の歴史は自然との闘いと共存であった。それは、中国の神話時代(堯、舜など)の逸話の中に現れている。


禹王の伝説
禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。
舜は、名は文命、姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成した。
 時が過ぎ、紀元前4世紀ころ活躍した孟子は、楊朱(儒家や墨家に対抗した個人主義的思想家)という人物を批判して「楊朱という奴は、すねの毛を一本抜けば天下が救われるという場合でも、その毛一本さえ抜かない」と言った。その意味は、楊朱は自分のことしか考えない奴だ、ということだ。これは、禹が治水のため泥の中を這い回った結果、すねの毛が全部抜け落ちたという話が前提になっている。


田中丘偶の業績
郷土歴史家の大脇良夫氏の調査では、日本全国22箇所に中国古代の伝説の王朝、夏(紀元前2100年~1600年ごろ)の開祖禹王の名が記された治水碑及び地名があるという。その中に、神奈川県酒匂川の治水神として、禹王が祀られている。南足柄市大口の福沢神社に文命東堤碑と文命宮が地元有志の手によって守られている。この文命宮を作ったのが田中丘偶(1662~1730)であった。
田中丘偶は今のあきる野市に商人の子として誕生、22歳の時、東海道の宿場のひとつ・川崎宿で下本陣をつとめていた田中兵庫(たなかひょうご)の娘むことなり、45歳で田中家を相続。六郷の渡しの独占権を獲得するなど、財政難だった川崎宿をみごとに再建させた兵庫が、河川土木の勉強を始めたのは50歳を過ぎてから。江戸時代の有名な学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)に学び、民衆の視点で治水などについて意見した「民間省要(みんかんせいよう)」が8代将軍吉宗に認められ、幕府の治水事業に携わるようになったのは61歳の時だった。
 丘隅は、享保9(1724)年から多摩川下流右岸の大丸用水と稲毛川崎二ケ領用水の改修、下流右岸の小杉の瀬替え(蛇行部のショートカット)、享保14(1729)年からは下流の連続堤の築堤を行い、「丘隅をして多摩川流という河川土木技術を起した」(「新多摩川誌」)と言われるほど、全国の河川土木技術に大きな影響を与えた。
 丘隅の最後の仕事となったのが現在の川崎区旭町あたりから大師河原までの多摩川下流右岸の堤防改修工事。この工事によって、多摩川の下流部の連続堤が完成したものと見られ、今も多摩川の下流部にえんえんと続く堤防の基礎がつくられた。この田中丘偶の業績を見るとき、その根底には治水事業によって民を守った禹王への崇拝が見て取れる。つまりは禹王と孟子の思想が田中丘偶の思想になり、この思想が物質的な力となって丘偶をしてこの治水事業を動かしたのではないだろうか?

井 戸 の 歴 史 を 探 る

最近、江戸川区役所から防災用井戸を落札することができた。そこで、井戸の歴史を調べてみた。
世界最古の井戸は、アメリカ・ニューメキシコ州のクローヴィス遺跡にあるもので、紀元前1万1500年ごろ、直径は60cm、深さは1.4m。クローヴィス文化は石期(旧石器時代に相当)、狩猟と採集にたよる生活で、パレオ・インディアンと呼ばれた。
 日本最古の井戸は、鹿児島県にある玉乃井。神武天皇の祖父山幸彦が豊玉姫と出会った場所がこの井戸らしい。しかし、神話に関しては、出雲地方も黙っていない。大国主大神が八上姫に産ませた御子に産湯をさせるため三つの井戸(生井、福井、綱長井)を掘った。
二つの神話の共通点は、男女の出会いの場=生命の根源が井戸という場所にふさわしいということか。

愛媛県西条市の自噴井戸
愛媛県西条市のHPに「水の歴史館」がある。これは、西条市が豊かな水環境を持ち、この水の文化を大切にしていることが伺える。西条市では江戸時代後期から「ぬきうち」工事が盛んに行われている。その代表的工法が「金棒掘り」で十字に組んだ丸太棒を万力のような金具で金棒に接続し、13~14人ぐらいで所定の高さまで持ち上げては落とすという掘削方法(金棒を使った人力による肩掘り)だった。
西条市内には、広範囲に地下水の自噴井があり、これらは「うちぬき」と呼ばれており、その数は約3,000本といわれている。
 その昔、人力により鉄棒を地面に打ち込み、その中へくり抜いた竹を入れ、自噴する水(地下水)を確保した。この工法は、江戸時代の中頃から昭和20年頃まで受け継がれてきました。「うちぬき」の名の由来である。
 現在は、鉄パイプの先端を加工し、根元に孔を開けたものをコンプレッサーによるエアーハンマーを使用して、地下水層まで打ち込み、地下水を取水している。
 「うちぬき」の一日の自噴量は約9万m3におよび、四季を通じて温度変化の少ない水は生活用水、農業用水、工業用水に広く利用されている。この「うちぬき」は、名水百選に選定されている。

世界最古のクローヴィス遺跡の井戸

鹿児島県の玉乃井

出雲の生井

江戸後期 三本櫓による金棒掘り