コラム

地質時代 第11号 平成29年8月発行

治水の神様禹王と田中丘隅

異常気象による局地的豪雨や台風の頻発により、日本の土木事業、なかでも治水事業の重要性がますます増してきている。人類の歴史は自然との闘いと共存であった。それは、中国の神話時代(堯、舜など)の逸話の中に現れている。


禹王の伝説
禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。
舜は、名は文命、姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成した。
 時が過ぎ、紀元前4世紀ころ活躍した孟子は、楊朱(儒家や墨家に対抗した個人主義的思想家)という人物を批判して「楊朱という奴は、すねの毛を一本抜けば天下が救われるという場合でも、その毛一本さえ抜かない」と言った。その意味は、楊朱は自分のことしか考えない奴だ、ということだ。これは、禹が治水のため泥の中を這い回った結果、すねの毛が全部抜け落ちたという話が前提になっている。


田中丘偶の業績
郷土歴史家の大脇良夫氏の調査では、日本全国22箇所に中国古代の伝説の王朝、夏(紀元前2100年~1600年ごろ)の開祖禹王の名が記された治水碑及び地名があるという。その中に、神奈川県酒匂川の治水神として、禹王が祀られている。南足柄市大口の福沢神社に文命東堤碑と文命宮が地元有志の手によって守られている。この文命宮を作ったのが田中丘偶(1662~1730)であった。
田中丘偶は今のあきる野市に商人の子として誕生、22歳の時、東海道の宿場のひとつ・川崎宿で下本陣をつとめていた田中兵庫(たなかひょうご)の娘むことなり、45歳で田中家を相続。六郷の渡しの独占権を獲得するなど、財政難だった川崎宿をみごとに再建させた兵庫が、河川土木の勉強を始めたのは50歳を過ぎてから。江戸時代の有名な学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)に学び、民衆の視点で治水などについて意見した「民間省要(みんかんせいよう)」が8代将軍吉宗に認められ、幕府の治水事業に携わるようになったのは61歳の時だった。
 丘隅は、享保9(1724)年から多摩川下流右岸の大丸用水と稲毛川崎二ケ領用水の改修、下流右岸の小杉の瀬替え(蛇行部のショートカット)、享保14(1729)年からは下流の連続堤の築堤を行い、「丘隅をして多摩川流という河川土木技術を起した」(「新多摩川誌」)と言われるほど、全国の河川土木技術に大きな影響を与えた。
 丘隅の最後の仕事となったのが現在の川崎区旭町あたりから大師河原までの多摩川下流右岸の堤防改修工事。この工事によって、多摩川の下流部の連続堤が完成したものと見られ、今も多摩川の下流部にえんえんと続く堤防の基礎がつくられた。この田中丘偶の業績を見るとき、その根底には治水事業によって民を守った禹王への崇拝が見て取れる。つまりは禹王と孟子の思想が田中丘偶の思想になり、この思想が物質的な力となって丘偶をしてこの治水事業を動かしたのではないだろうか?

井 戸 の 歴 史 を 探 る

最近、江戸川区役所から防災用井戸を落札することができた。そこで、井戸の歴史を調べてみた。
世界最古の井戸は、アメリカ・ニューメキシコ州のクローヴィス遺跡にあるもので、紀元前1万1500年ごろ、直径は60cm、深さは1.4m。クローヴィス文化は石期(旧石器時代に相当)、狩猟と採集にたよる生活で、パレオ・インディアンと呼ばれた。
 日本最古の井戸は、鹿児島県にある玉乃井。神武天皇の祖父山幸彦が豊玉姫と出会った場所がこの井戸らしい。しかし、神話に関しては、出雲地方も黙っていない。大国主大神が八上姫に産ませた御子に産湯をさせるため三つの井戸(生井、福井、綱長井)を掘った。
二つの神話の共通点は、男女の出会いの場=生命の根源が井戸という場所にふさわしいということか。

愛媛県西条市の自噴井戸
愛媛県西条市のHPに「水の歴史館」がある。これは、西条市が豊かな水環境を持ち、この水の文化を大切にしていることが伺える。西条市では江戸時代後期から「ぬきうち」工事が盛んに行われている。その代表的工法が「金棒掘り」で十字に組んだ丸太棒を万力のような金具で金棒に接続し、13~14人ぐらいで所定の高さまで持ち上げては落とすという掘削方法(金棒を使った人力による肩掘り)だった。
西条市内には、広範囲に地下水の自噴井があり、これらは「うちぬき」と呼ばれており、その数は約3,000本といわれている。
 その昔、人力により鉄棒を地面に打ち込み、その中へくり抜いた竹を入れ、自噴する水(地下水)を確保した。この工法は、江戸時代の中頃から昭和20年頃まで受け継がれてきました。「うちぬき」の名の由来である。
 現在は、鉄パイプの先端を加工し、根元に孔を開けたものをコンプレッサーによるエアーハンマーを使用して、地下水層まで打ち込み、地下水を取水している。
 「うちぬき」の一日の自噴量は約9万m3におよび、四季を通じて温度変化の少ない水は生活用水、農業用水、工業用水に広く利用されている。この「うちぬき」は、名水百選に選定されている。

世界最古のクローヴィス遺跡の井戸

鹿児島県の玉乃井

出雲の生井

江戸後期 三本櫓による金棒掘り

地質時代第10号 平成29年7月発行

九州北部豪雨による土砂災害

異常気象が地形を変える
 梅雨前線や台風第3号の影響により、九州北部地方を中心に局地的に猛烈な雨が降り、大雨となった。特に、7月5日から6日にかけては、対馬海峡付近に停滞した梅雨前線に向かって暖かく非常に湿った空気が流れ込んだ影響で、九州北部地方で記録的な大雨となった。これまでの1時間の最大雨量は、福岡県朝倉(あさくら)で129.5ミリ、長崎県芦辺(あしべ)で93.5ミリ、高知県大栃(おおどち)と大分県日田(ひた)で87.5ミリを観測するなど猛烈な雨となったところがある。これまでの24時間の最大雨量は、福岡県朝倉で545.5ミリ、長崎県芦辺で432.5ミリ、大分県日田で370.0ミリとなるなど、九州北部地方では350ミリを超える記録的な大雨となっている地域がある。 この豪雨の影響で山間部の急斜面が崩れ、大量の土砂と立木を下流部に押し流し、死者32名(7月15日現在)を超える大災害となってしまった。これは、局地的に大雨を降らす地球温暖化が引き金になっていることは間違いない。

大分県日田市大肥本町の被災状況



世界最大の地滑り事故は地質技術者の失敗から
 1960年、イタリア北東部のバイオント川の渓谷に262mの提高のダムが建設された。貯水直後から地滑りが頻発するようになり、ついに1963年10月9日大規模な地滑りが発生した。貯水湖になだれ込んだ土砂に押流され水が津波となってダム下流の集落に壊滅的被害(死者2500人)をもたらした。2008年ユネスコは地球科学の理解が重要であることを示す『五つの教訓と五つの朗報』の教訓の筆頭に「技術者と地質学者の失敗」によって引き起こされた事例としてこのバイオントダム災害をあげ、山腹の地質に対する適切な理解があれば防ぎえたとした。ダムと豪雨では経緯はまったく違うが、山腹の地質的な理解については同じ問題をはらんでいて、地球温暖化によるゲリラ豪雨と日本の地形的特性を理解し、適切な砂防対策が求められる。あらゆる土砂災害の土台には、地質に対する科学的知識と責任感が何よりも求められることを教えている。

災害後のバイオントダム

砂防の歴史
 万葉集の時代、藤原宮造営時(676年~704年)に社寺の建築のため田上山(滋賀県大津市)等から良材を伐採した様子が万葉集に歌われている。
石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ その後、山腹の荒廃が深刻化したと思われる。
 明治維新後、荒廃した山腹を改良するために、藩政時代の技術革新をはかるためオランダを中心に外国人技術者が招聘された。なかでも明治6年(1873年)に来日したヨハネス・デレ-ケは、17種の工法を案出するとともに、日本各地の流域を踏査し、30年の長きにわたり、わが国砂防工事の指導を行った。 ヨーロッパの砂防技術の導入により、内務省技師であった赤木正雄の手により更なる発展を遂げた。彼の設計した成願寺川の白岩砂防堰堤が有名である。
 全国に52万5307箇所の土砂災害危険箇所があり(平成14年現在)、そのうち最も多いのは、広島県の3万1987箇所、ついで島根県、山口県、兵庫県と続き、大分県が1万9640箇所と5番目に多くなっている。

ヨハネス・デレーケ像

赤木正雄技師による白岩砂防堰堤

 

地質時代 第9号 平成29年6月発行

利根川東遷の舞台裏

関東の連れ小便
 1590年夏、秀吉は、一夜城で知られる小田原石垣山の山頂で放尿しながら、家康に関東八カ国(相模、武蔵、上野、下野、上総、安房、常陸)と家康所領(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)との国替えの話を持ちかけた。銀座の一等地からアマゾン奥地の交換を持ちかけられたようなものだった。当事、江戸城の東と南は海、西側は茫々たる萱原、北だけが緑色に盛り上がった台地であった。しかし、北側から何本もの川が流れ込み、江戸を泥地にしていた。秀吉としては家康の力を削ぐつもりだった。家康の家臣団はこぞって反対した。しかし、家康はこれを受けた。土木的は知識も少なかった時代、これは地政学的な戦略や何か展望を持っていたのではなく、力の論理で仕方がなかったのだろう。

利根川工事の概略

最初の都市計画会議
 江戸の都市計画をめぐり、家臣たちの提案が続く。本多忠勝は、山を削って湿地を埋め立てようと提案。土井勝利は、江戸に流れ込む何本もの川の築堤を提案した。しかし、家康が採用したのは、かつて三河国の一向一揆で家康に背いた伊奈忠次の案だった。すなわち、江戸に流れ込む前に川を曲げる。というものだった。伊奈は、関東平野を2年にわたり調査した結果、その大本は利根川にあることを突き止めた。利根川を東に曲げ、渡良瀬川と合流させ浦安に流すというもの。完成の1621年まで着工から27年の歳月が流れた。結果として与えられた環境の中で最善を尽くすことが、思いもしない可能性を切り開いたことになった

江戸のフロンティア精神
 アメリカ合衆国の発展は、ヨーロッパの古い因習に縛られず、未知の大地に自由にその能力を発揮できたからだと、どこかで読んだ気がする。家康も駿河にいたままでは、天下は取れなかったのではないだろうか?関東という未開の地に対するフロンティア精神があったからこそ、江戸260年の礎を築くことができたように思う。その点で、トランプの『アメリカンファースト』は『引きこもり精神』とでも呼ぶべきものではないだろうか。今の利根川は千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。古代・中世には、猿が又(葛飾区水元)、亀有付近で三川に分流して江戸湾(東京湾)に注いでいた。猿が又で東に分かれた流れは太井川に合流する。太井川は渡良瀬川の下流で、今の江戸川である。亀有でそのまま南下する川が中川であり、西へ分かれる川が隅田川(古隅田川)だった。この古隅田川は消滅したが、今の足立区と葛飾区の区境線に沿うようにして流れ、鐘ヶ淵(墨田5丁目)のあたりで入間川に合流した。埼玉県飯能市に源を発する入間川の流路が今の隅田川である。
 荒川もかつて埼玉県岩槻市付近で利根川に合流していた。1629年、荒川の河道を入間川に移した。入間川に荒川が合流する川越市古谷から下流も荒川に呼ぶようになった。明治44年、洪水対策のため北区岩淵で東に分流させる工事が始まり、昭和5年に完成した。これが荒川放水路であり、今の荒川である。

古代・中世の利根川と隅田川

地質時代 第8号 2017年5月8日発行

ローマ帝国と秦帝国の道路の歴史と『猿百匹の現象』

 英国の科学史家ジョセフ・ニーダム(1900-1995)は『紀元の前後数世紀における世界で、一つはイタリア半島の一角(古代ローマ)に、もう一つは中国で黄河の山西山脈の屈曲部あたり(長安)に、それぞれ(都市の)中心部から樹状に延びる道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった』と記している。

アッピア街道

アッピア街道


   古代ローマの道路網は「すべての道はローマに通ず」のことわざに名高い、BC.312のアッピア街道の建設からはじまりトラヤヌス帝(98-117)時代には総延長29万キロ、主要幹線8万6千キロ(現在の米国は9万キロ)であった。道路のネットワークとしての機能を創造したのはローマ人であった。その目的は、軍隊の配置、役人の公用、生産物の輸送、民間人の移動であった。
 秦の始皇帝の道路網は、始皇帝が燕・韓・趙・魏・斉・楚(六国)を征服した翌年のBC.220に開始された。皇帝のみが通る道で「馳道」と呼ばれた。「馳道」は秦の首都咸陽を中心にして諸侯列国の首都を連接し、さらに全国に延びるものであった。その延長は7481キロとローマの十分の一であったが、その建設期間はわずか10年ほどであった。その目的は、全国統一と六国の貴族の復活の阻止、六国の財宝を咸陽に輸送すること、阿房宮ほか700ヶ所の宮殿建設の資材運搬をするためであった。もっぱら皇帝の私利私欲のための「馳(ち)道(どう)」であった。ローマの歴史1000年に対し、秦はわずか40年の背景には、道路をいかに使うのかに大きな差が生じたようである。(参考:中央新書 道路の日本史 武部健一著より)
 そこで、最初のニーダムの問題提起『~道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった。』の一節でふと頭をよぎったのが『百匹目の猿現象』である。これは、宮崎県串間市の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られ

イモを洗うニホンザル

イモを洗うニホンザル

るようになったという現象である。

ウィキペディアによると、この現象に対して、「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」(船井幸雄の見解)という見解があり、もう一つは、「実際には存在しない現象で、疑似科学に分類される」(ウィキペディアの立場)というものである。この二つの見解は相反するようで実は同じ観念によって支配されている。前者は「そうあってほしい」という願望であり、後者は「そんなことは証明されえない」という思惑である。私には、両者とも同じ意見に聞こえてくる。本来ニホンザルの主食は果実、草食の樹上性のものであった。イモを食いだしたのは、戦後の食糧難の時代であり、森林伐採と都市化が進み、サルとて例外ではなかった。畑のイモはそれに変わるものだった。樹上のものは洗わずとも食えた、しかし畑のものは土だらけである。洗うのは当然ではないだろうか?どこのサルも食糧難、どこのサルも畑に目をつける、土がつけば洗う。つまりは、「戦後の食料難の時代が生み出したもの」というのが私の見解である。道路も同じ、「天下統一という歴史時代が生み出したもの」これが「何の関連もなく広がった」理由ではないだろうか?

浮き上がる!?上野駅と東京駅

 

江東区、墨田区、江戸川区の観測井の地下水変動図

            

 上のグラフは弊社が東京都土木技術・人材支援センターより受注し、平成28年1月から平成28年12月測定した業務の一年前の地下水位の変位データです。これによると、下町地区で昭和38年から47年に最大T.P.-58mだったのが平成27年にはT.P.-5m程度まで約43m近く地下水が上昇(回復)しています。
東京都では、昭和28年から毎年継続して地下水や地盤沈下を測定していますが、このような地下水の回復は、地盤沈下を収束させており地下水の取水規制の大きな成果といえます。

地下水上昇で浮き上がる駅舎を守る
① 新幹線の上野地下駅は地下4階建てで、地下30mの東京礫層を基礎としています。地下水位は設計時の昭和54年(1979年)には地下38mと基礎下8mにありましたが、平成6年(1994年)には地下14mまで上昇、さらに11.5mまでになり、専門家の計算では、なんと駅舎そのものが浮き上がることが明らかになりました。その対策が3万トンの鉄の錘を地下4階のホーム下に積み上げて並べました。2tの直方体の鉄の塊を15000個並べたとのことです。地下水の長期にわたる地道な測定が着工前に対策を立てられた大きな要因のように思います。
② 総武快速線の東京地下駅は地下5階建てで、地下27mで江戸川砂層の上に直接基礎で作られました。建設時の昭和47年(1972年)の地下水位は地下35mでしたが、平成10年(1998年)には地下15mと20mも上昇しました。このままあと1m上昇すると床の損傷が起き、あと2.5m上昇すると地下駅全体が浮き上がると予想されました。対策として上野駅のような錘方式が検討されましたが、地下水圧のもとでも施行できる新たに改良されたアンカーが費用と機能で優れていると判断されアンカー方式が採用されました。基礎と支持地盤とを接合し、1本のアンカーで100tの水圧に耐えられるものを130本うち、費用は上野駅の三分の一で済んだとのこと。水圧を受けながら掘削する技術革新が経費削減につながったようです。

地盤沈下によって抜きあがるように見える江戸川区の井戸

地盤沈下によって抜きあがるように見える江戸川区の井戸

豊洲市場、突然の基準値オーバーを推理する!

今まで、検出されなかったものが突如として検出されたのはなぜか?

唯一、合理的な推理は、地下水が遮水壁の下か隙間から汚染物質を引き寄せたのではないだろうか?

設計当初、遮水壁は、地下の不透水層に定着させ、地下水の流入はないとの説明があったが、一部地質の専門家からは、その地層が不透水層かどうか疑わしいとの意見が出されたが、市場側の説明は、「不透水層だ」というものだった。(議事録に残っている)

したがって、地下空間の水は雨水との見解を押し通したわけだが、遮水壁の外から流入した水であれば、水と一緒に汚染物質が流入したことによって説明はつく。

福島の原発でも地下水対策が最重要課題であったが豊洲でも地下水が問題となっている。

飲んでも大丈夫とはいうが、民間の土地売買では、基準値をちょっとでも超過すれば大問題になるのに70倍以上でも大丈夫は通用しないだろう。

葛飾区で地質調査の補助金30万円が支給されています

葛飾区は地盤の液状化に対して、区として、液状化判定に伴う補助金を支給しています。

詳しくは下記ホームページを参照してください。

http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000059/1003399/1003416.html

この画期的制度は是非利用してください。

液状化判定の十分な調査が可能です。

地質時代 2016年4月第7号

平成28年熊本地震

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今回の地震で亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、今もまだ、苦しい避難生活を送られている方々に、お見舞い申し上げます。

熊本地震の特徴は、第一、震度7が連続発生したこと。第二、86kmにわたる断層帯にそって広範囲に発生している事。第三、震度7が2回、6が5回、5が10回と大きな余震が続いていること。で、いずれも前例のない地震であり、正しい評価は、現段階では難しいようです。

地震の命名について

今回の地震は、「平成28年熊本地震」と気象庁が発表しましたが、気象庁の命名基準は、①陸域ではM 7.0以上震度5弱以上。②顕著な被害(全倒壊100棟程度以上)、③群発地震で被害が大きかった場合。名称の付け方は、「元号+地震情報に用いる地域名+地震」ですが、これとは別に政府が命名する場合があります。

気象庁命名「平成7年兵庫県南部地震」⇒政府命名「阪神・淡路大震災」
気象庁命名「平成23年東北地方太平洋沖地震」=政府命名「東日本大震災」
自然現象としての単なる地震ではなく、地震によって甚大な被害を蒙った事実を忘れないために「○○大震災」という名称は必要であるし、歴史にしっかり刻む必要があると思います。

地震の所轄機関はどうなっているのか?

  1. 気象庁(国土交通省外局):震度速報(震度3以上)、震源の情報、津波情報、各地の震度など
  2. 地震調査研究推進本部(文部科学省):行政施策に直結すべき地震の調査研究の責任体制を政府として一元的に推進するための機関。
  3. 地震予知連絡会(国土地理院):国の機関、大学等で進められる観測成果の集約と発表。
  4. 産総研地質調査所(経済産業省):地質調査のナショナルセンターとして地質情報の整備。

地震メカニズムについての機関は会計監査院あたりで交通整理すればもっと機能的になるかもしれない。他方で、災害対策にあたる機関もまた、自治体・自衛隊・警察・消防がその都度連携しているだけで、緊急物資の配分などSNSで各人が自然発生的に行っているのはいかがなものだろうか?地域コミュニティーの連携、情報集約と素早い初動活動のできる体制が望まれる。

関東地方の活断層と首都直下地震

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1. 関谷断層(那須塩原、塩谷・M 7.5)
2. 内ノ龍断層(栃木県西部・M 6.6 )
3. 片品川左岸断層(群馬県北部・M 6.7 )
4. 大久保断層(前橋、桐生、足利・M7↑)
5. 太田断層(桐生、太田、千代田・M6.9)
6. 長野盆地西縁断層帯(M 7.4~ 7.8 )
7-1深谷断層帯(高崎、東松山・M 7.9 )
7-2綾瀬川断層(鴻巣、伊奈、川口M 7 )
8. 越生断層(越生町・M 6.7)
9. 立川断層帯(青梅、立川、府中・M7.4)
10. 鴨川低地断層帯(鴨川、富山町・M7.2)
11. 三浦半島断層群(三浦半島中南部・M6.6)
12. 伊勢原断層(愛川町、伊勢原、平塚・M7 )
13-1塩沢断層帯(山北町、御殿場・M6.8)
13-2平山-松田北断層帯(開成町・M6.8)
13-3国府津-松田断層帯(大井町・M6.8)
14. 曽根丘陵断層帯(笛吹、甲府・M 7.3 )
15. 富士川河口断層帯(富士宮、静岡・M7.2)
16. 身延断層(身延、富士宮・M 7 )
17. 北伊豆断層帯(箱根、湯河原、伊豆M7.3)
18. 伊東沖断層(M 6.7 )
19. 稲取断層帯(河津、伊豆大島西方沖・M7 )
20. 石廊崎断層(M 6.9~ 7 )
21.糸魚川 -静岡構造線断層帯(M 7.7)

2012年東京都防災会議は「首都直下地震等による東京の被害想定」の報告書を発表していますが、発表当時はかなりインパクトがありましたが、5年もたつとすっかり忘れていました。今度の地震でもう一度記憶に焼き付け、できうる防災対策で備えましょう!

地質時代 2015年4月第6号

玉川上水今昔物語

江戸は一日してならず

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地質時代1号で、徳川家康は江戸入府に先立って、1594年~1654年に「利根川東遷」での関東平野の治水事業の実施を紹介しました。これに先立 つ1590年、家康は大久保藤五郎に水道の見立てを命じ、藤五郎は、小石川上水を作り上げたと伝えられています。その後、1629年には、井之頭池や善福 寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする神田上水が完成。南西部では赤坂溜池を水源として利用していました。

1609年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ロドリゴの見聞録)でしたが、3代将軍家光の時、参勤交代の制度が確立すると、人口増加に拍車がかかり、既存の水道では足りなくなり、新しい上水の開発が日程に上りました。

1652 年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立てました。工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、工事請負人は庄右衛門と清右衛門兄弟に決定。水道奉行に伊 奈半十郎忠治が命ぜられました。1653年4月4日着工し11月15日に羽村取水口から四谷大木戸まで素掘りが完成。全長43km、高低差92mの緩勾配 です。180m/日の驚異的進捗率です。

翌年6月には虎ノ門まで地下に石樋、木樋による配水管を敷設、江戸城はじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋一帯に給水しました。兄弟は褒章に玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。

明治になると、末端の木樋に汚水が流入し、しばしばコレラが大流行するようになり、浄水場で原水ををろ過し、鉄管を通じて加圧給水する近代水道の建設が急務 となりました。1898年12月、玉川上水を導水路として、代田橋付近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を建設、神田、日本橋方面に給水を開始しました。1965年には、利根川の水が東京に導かれ、淀橋浄水場は廃止。玉川上水は導水路としての役割を終えました。1984年には、清流復活事業の一環で、昭島市の東京都下水道局多摩川上流再生センターで処理された再生水は、高井戸を経緯し、神田川に合流しています。

2012年、新宿区は、新宿御苑の北を走る国道20号線のトンネル上部に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」の供用を開始しました。水路の水源は、この地下トンネルの地下水をポンプアップして利用。ヒートアイランド現象の緩和にも期待されています。

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関東地方の活断層

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1.関谷断層
2.内ノ龍断層
3.片品川左岸断層
4.大久保断層
5.太田断層
6.長野盆地西縁断層帯
7-1深谷断層帯
7-2綾瀬川断層
8.越生断層
9.立川断層帯
10.鴨川低地断層帯
11.三浦半島断層群
12.伊勢原断層
13-1塩沢断層帯
13-2平山-松田北断層帯
13-3国府津-松田断層帯
14.曽根丘陵断層帯
15.富士川河口断層帯
16.身延断層
17.北伊豆断層帯
18.伊東沖断層
19.稲取断層帯
20.石廊崎断層
21.糸魚川-静岡構造線断層帯

地質時代 2014年11月第5号

浦安液状化判決の本質

10月8日と31日、浦安市で発生した東日本大震災での液状化被害の損害賠償裁判が、相次いで一審、住民側敗訴の判決が下されました。

8日の裁判では、三井不動産が1981年以降に行った分譲地に対するもので、判決は「住宅の販売時( 1981年当時)に液状化を予測するのは困難だった」と判断しました。また、三井不動産が研究者の報告をもとに、液状化に有効とされる工法をとっていたことも挙げ、「対策が不十分だったとは言えない」としました。

31日の裁判では、やはり、三井不動産が2003年~2005年にかけて分譲した土地に対するもので、判決は、「揺れる時間が数十秒の通常の地震が想定されていた」と指摘。「今回のように2分も続く地震は、当時の知見では予測不可能だった」として、業者側の責任を否定しました。
住民側にとって、まったく気の毒な判決となりました。判決の趣旨は、「当時は科学的に自然現象を予測できなかったのは、過失ではない。」ということであります。しかし、科学は常に発展しているとはいえ、自然現象が常に新しい課題を提起するのであって、決して科学が自然に追いつくことはないことは明白です。しかも、法律は自然科学のはるか後ろをゆっくりと歩いています。したがって、自然現象に起因する災害被害の行き着く先は「想定外」という聞きなれた言葉に収束していきます。今回の2例の判決の本質は、福島原発と同じ問題が提起されているように思われま
す。

現代社会において、日本人が初めて液状化現象を意識したのは、1964年の新潟地震でした。この時から、液状化を考慮した構造物設計指針の導入が始まりました。以下、概観します。

 

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これでも「想定外」は付きまとうでしょう。さらに火災や倒壊を考慮すると、暗澹たる気持ちになります。しかし、それでも、人々は立ち上がり、復興してきた姿を見るとき、本当の財産と防災は、地域住民の絆、共同体の力以外にないように思われます。

建築家の格言と作品

フランク・ロイド・ライト(1867~1859)

アメリカの建築家 代表作:旧帝国ホテル新館、カウフマン邸(落水荘)、山邑邸、ユニティ教会
若い時は、不倫や放火殺人に巻き込まれるスキャンダラスな人生。70歳代で代表作を作り上げた。長く生きるほど、人生は美しくなる。

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ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969)

ドイツの建築家 代表作:バルセロナ・パビリオン
20世紀モダニズム建築を代表する建築家。バルセロナチェアー(椅子)のデザインでも有名。
より少ないことは、より豊かなこと。
神は細部に宿る。

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ル・コルビュジエ(1887~1965)

フランスの建築家 代表作:サヴォア邸近代建築の五原則(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)を体現。
住宅は住むための機械である。

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アントニオ・ガウディ(1852~1926)

代表作:サクラダ・ファミリア
芸術におけるすべての回答は、偉大なる自然の中にすべて出ています。ただ、私たちは、その偉大な教科書を、紐解いていくだけなのです。・・・世の中に新しい創造などない、あるのはただ発見である。

ヴァルター・グロピウス(1883~1969)

代表作:メットライフ・ビルディング
専門家とは、いつも同じ間違いを繰り返す人たちのことである。

ルイス・カーン:

創造とは、逆境の中でこそ見出されるもの

ルイス・サリバン:

形式は機能に従う

フンデルトヴァッサー:

直線に神は宿らない
自然に存在するのは曲線のみで、定規で引いたような直線を徹底的に拒否した。

地質時代 2014年10月第4号

9月27日11時52分、秋の登山客で賑わう御嶽山が突如噴火、12名が死亡した。生存者の話では、山頂近くにいた人々は、山小屋や神社の庇に避難する1~2秒差で生死を分けたという。アッという間に火山灰が積もり、呼吸困難に。また、降ってきた石で頭が陥没した人、子供の「苦しいよう」という言葉に父親がはげます声が、やがて聞こえなくなるなど、まさに地獄絵が展開された。

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翌28日(日曜日)、火山噴火予知連絡会拡大幹事会が開催され、御嶽山噴火の検討が行われた。メンバーは国立大学、国土地理院、気象庁、国交省など。検討結果は、水蒸気噴火であったことが確認された。また、噴火7分前に山体が膨張する現象、火山性地震などが観測された。また9月上旬に一旦、火山性地震が増加したがその後は沈静化しており、火山課長は「前兆をとらえ予知するのは難しかった」と語った。

世界の活火山の7%が日本に集中している。ちなみに、活火山の定義は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義され現在110ある。さらに、2009年6月には、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び社会的影響を踏まえ、「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要のある火山」として47火山が火山噴火予知連絡会によって選定された。これらの火山では、地震計、傾斜計、空振計、遠望カメラ、GPS観測による24時間の観測体制がとられいる。御嶽山はこのひとつ。1~ 2秒で生死を分けたのであれば、7分あれば警報やサイレンでなんとかならなかったのだろうか?

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米国土木学会選定の20世紀10大プロジェクト『関空』のギネス級地盤沈下

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関西空港は、アメリカ土木学会の選定する20世紀の10大プロジェクトのうちの空港部門に選定されている。橋梁部門ではゴールデンブリッジ、高層ビル部門ではエンパイヤーステートビルの名があげられている。それだけすごい施設であるが、圧密沈下もすさまじく、建設以降最大14m以上も沈下しており、沈下量は少なくなっているが、まだ収まっていない。厄介なのは、Maと表示された海成粘土層でMa 1(最下部)~Ma 13(最上部)まで、13層の粘土層が500m近くまで分布し、各層で空港島の荷重を受け沈下している。Ma 13はサンドパイルの打設で沈下は収束したが、それはせいぜい20m程度。50年後も『関空』残っているのか?