コラム

関東地方の活断層と首都直下地震

地質時代 第7号 2016年4月 2面

①関谷断層(那須塩原、塩谷・M7.5)

②内ノ龍断層(栃木県西部・M6.6)

③片品川左岸断層(群馬県北部・M6.7)

④大久保断層(前橋、桐生、足利・M7↑)

⑤太田断層(桐生、太田、千代田・M6.9)

⑥長野盆地西縁断層帯(M7.4~7.8)

⑦-1深谷断層帯(高崎、東松山・M7.9)

⑦-2綾瀬川断層(鴻巣、伊奈、川口M7)

⑧越生断層(越生町・M6.7)

⑨立川断層帯(青梅、立川、府中・M7.4)

⑩鴨川低地断層帯(鴨川、富山町・M7.2)

⑪三浦半島断層群(三浦半島中南部・M6.6)

⑫伊勢原断層(愛川町、伊勢原、平塚・M7)

⑬-1塩沢断層帯(山北町、御殿場・M6.8)

⑬-2平山-松田北断層帯(開成町・M6.8)

⑬-3国府津-松田断層帯(大井町・M6.8)

⑭曽根丘陵断層帯(笛吹、甲府・M7.3)

⑮富士川河口断層帯(富士宮、静岡・M7.2)

⑯身延断層(身延、富士宮・M7)

⑰北伊豆断層帯(箱根、湯河原、伊豆M7.3)

⑱伊東沖断層(M6.7)

⑲稲取断層帯(河津、伊豆大島西方沖・M7)

⑳石廊崎断層(M6.9~7) ㉑糸魚川-静岡構造線断層帯(M7.7)

 

2012年東京都防災会議は「首都直下地震等による東京の被害想定」の報告書を発表していますが、発表当時はかなりインパクトがありましたが、5年もたつとすっかり忘れていました。今度の地震でもう一度記憶に焼き付け、できうる防災対策で備えましょう!

 

 

    

平成28年熊本地震

地質時代 第7号 2016年4月 1面

 今回の地震で亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、今もまだ、苦しい避難生活を送られている方々に、お見舞い申し上げます。

 熊本地震の特徴は、第一、震度7が連続発生したこと。第二、86kmにわたる断層帯にそって広範囲に発生している事。第三、震度7が2回、6が5回、5が10回と大きな余震が続いていること。で、いずれも前例のない地震であり、正しい評価は、現段階では難しいようです。

地震の命名について  

 今回の地震は、「平成28年熊本地震」と気象庁が発表しましたが、気象庁の命名基準は、①陸域ではM7.0以上震度5弱以上。②顕著な被害(全倒壊100棟程度以上)、③群発地震で被害が大きかった場合。名称の付け方は、「元号+地震情報に用いる地域名+地震」ですが、これとは別に政府が命名する場合があります。  気象庁命名「平成7年兵庫県南部地震」⇒政府命名「阪神・淡路大震災」  気象庁命名「平成23年東北地方太平洋沖地震」=政府命名「東日本大震災」  自然現象としての単なる地震ではなく、地震によって甚大な被害を蒙った事実を忘れないために「○○大震災」という名称は必要であるし、歴史にしっかり刻む必要があると思います。

地震の所轄機関はどうなっているのか?  

①気象庁(国土交通省外局):震度速報(震度3以上)、震源の情報、津波情報、各地の震度など  ②地震調査研究推進本部(文部科学省):行政施策に直結すべき地震の調査研究の責任体制を政府として一元的に推進するための機関。  ③地震予知連絡会(国土地理院):国の機関、大学等で進められる観測成果の集約と発表。  ④産総研地質調査所(経済産業省):地質調査のナショナルセンターとして地質情報の整備。 地震メカニズムについての機関は会計監査院あたりで交通整理すればもっと機能的になるかもしれない。他方で、災害対策にあたる機関もまた、自治体・自衛隊・警察・消防がその都度連携しているだけで、緊急物資の配分などSNSで各人が自然発生的に行っているのはいかがなものだろうか?地域コミュニティーの連携、情報集約と素早い初動活動のできる体制が望まれる。

コラ半島超深度掘削孔

地質時代 第6号 2015年4月 二面

 コラ半島超深度掘削坑はソビエト連邦が行った地球の地殻深部を調べる科学的掘削計画である。1970年5月24日にコラ半島で掘削開始、本坑から何本もの支坑が掘られた。最も深いものは12,261mに達し(1989年)、世界記録である。当初計画は深度15,000mであったが、予想を超えた地温180℃に遭遇し、1992年に断念した。 この坑井は厚さ35kmとみられるバルト大陸地殻の1/3にしか達しなかったが、地球物理学に多くの情報をもたらし、地殻の化学成分と地殻上下部の違いが分かった。特に重要な発見には以下の点がある: 1.深度5-10kmの変成岩の下の花崗岩から玄武岩への岩石変化で、予想されていた地震波速度の違いが無かった。 2.岩石が破砕され、深部由来の水が充填していた。 3.大量の水素が存在した 米国も1957年にモホール計画を立ち上げ、メキシコ沖の太平洋で掘ったが1966年に資金不足で撤退した。これは後の深海掘削計画などに引き継がれている。

掘削施設全景

11000m到達記念写真

作業風景

12000mの柱状図

10000m突破記念切手

玉川上水今昔物語

地質時代 第5号 2015年4月 1面

江戸は一日してならず

地質時代1号で、徳川家康は江戸入府に先立って、1594年~1654年に「利根川東遷」での関東平野の治水事業の実施を紹介しました。これに先立つ1590年、家康は大久保藤五郎に水道の見立てを命じ、藤五郎は、小石川上水を作り上げたと伝えられています。その後、1629年には、井之頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする神田上水が完成。南西部では赤坂溜池を水源として利用していました。1609年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ロドリゴの見聞録)でしたが、3代将軍家光の時、参勤交代の制度が確立すると、人口増加に拍車がかかり、既存の水道では足りなくなり、新しい上水の開発が日程に上りました。 1652年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立てました。工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、工事請負人は庄右衛門と清右衛門兄弟に決定。水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。1653年4月4日着工し11月15日に羽村取水口から四谷大木戸まで素掘りが完成。全長43km、高低差92mの緩勾配です。180m/日の驚異的進捗率です。 翌年6月には虎ノ門まで地下に石樋、木樋による配水管を敷設、江戸城はじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋一帯に給水しました。兄弟は褒章に玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。 明治になると、末端の木樋に汚水が流入し、しばしばコレラが大流行するようになり、浄水場で原水ををろ過し、鉄管を通じて加圧給水する近代水道の建設が急務となりました。1898年12月、玉川上水を導水路として、代田橋付近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を建設、神田、日本橋方面に給水を開始しました。  1965年には、利根川の水が東京に導かれ、淀橋浄水場は廃止。玉川上水は導水路としての役割を終えました。1984年には、清流復活事業の一環で、昭島市の東京都下水道局多摩川上流再生センターで処理された再生水は、高井戸を経緯し、神田川に合流しています。  2012年、新宿区は、新宿御苑の北を走る国道20号線のトンネル上部に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」の供用を開始しました。水路の水源は、この地下トンネルの地下水をポンプアップして利用。ヒートアイランド現象の緩和にも期待されています。

浦安液状化裁判判決の本質

下の写真は産業総合研究所による、茨城県神栖市の液状化地域でのトレンチ調査。泥層を突き抜けて地表に突き抜ける噴砂脈が観察できる。

10月8日と31日、浦安市で発生した東日本大震災での液状化被害の損害賠償裁判が、相次いで一審、住民側敗訴の判決が下されました。 8日の裁判では、三井不動産が1981年以降に行った分譲地に対するもので、判決は「住宅の販売時(1981年当時)に液状化を予測するのは困難だった」と判断しました。また、三井不動産が研究者の報告をもとに、液状化に有効とされる工法をとっていたことも挙げ、「対策が不十分だったとは言えない」としました。 31日の裁判では、やはり、三井不動産が2003年~2005年にかけて分譲した土地に対するもので、判決は、「揺れる時間が数十秒の通常の地震が想定されていた」と指摘。「今回のように2分も続く地震は、当時の知見では予測不可能だった」として、業者側の責任を否定しました。 住民側にとって、まったく気の毒な判決となりました。判決の趣旨は、「当時は科学的に自然現象を予測できなかったのは、過失ではない。」ということであります。しかし、科学は常に発展しているとはいえ、自然現象が常に新しい課題を提起するのであって、決して科学が自然に追いつくことはないことは明白です。しかも、法律は自然科学のはるか後ろをゆっくりと歩いています。したがって、自然現象に起因する災害被害の行き着く先は「想定外」という聞きなれた言葉に収束していきます。今回の2例の判決の本質は、福島原発と同じ問題が提起されているように思われます。 現代社会において、日本人が初めて液状化現象を意識したのは、1964年の新潟地震でした。この時から、液状化を考慮した構造物設計指針の導入が始まりました。以下、概観します。

1964年(S39)新潟地震 M7.5

1964年(S42)東京都江東・墨田の液状化マップ作成

1974年(S49)建築基礎構造物設計基準

1983年(S59)日本海中部地震 M7.7

1984年(S60)宅地耐震設計マニュアル(案)

1987年(S63)東京低地の液状化予測マップ

1995年(H07)阪神淡路大震災 M7.2

1998年(H10)液状化地域ゾーニングマニュアル(国土庁)

2000年(H12)鳥取県西部地震 M7.3

2003年(H15)宅地耐震設計マニュアル(案)現UR

2004年(H16)浦安市地震防災基礎調査

2011年(H23)東日本大震災 M9.0

2013年(H25)宅地の液状化被害可能性判定に係る技術指針(案)  

これでも「想定外」は付きまとうでしょう。さらに火災や倒壊を考慮すると、暗澹たる気持ちになります。しかし、それでも、人々は立ち上がり、復興してきた姿を見るとき、本当の財産と防災は、地域住民の絆、共同体の力以外にないように思われます。

米国土木学会選定 20世紀10大プロジェクト『関空』の地盤沈下

地質時代 第4号 2014年10月 二面

 

 

 関西空港は、アメリカ土木学会の選定する20世紀の10大プロジェクトのうちの空港部門に選定されている。橋梁部門ではゴールデンブリッジ、高層ビル部門ではエンパイヤーステートビルの名があげられている。それだけすごい施設であるが、圧密沈下もすさまじく、建設以降最大14m以上も沈下しており、沈下量は少なくなっているが、まだ収まっていない。厄介なのは、Maと表示された海成粘土層でMa1(最下部)~Ma13(最上部)まで、13層の粘土層が500m近くまで分布し、各層で空港島の荷重を受け沈下している。Ma13はサンドパイルの打設で沈下は収束したが、それはせいぜい20m程度。50年後も『関空』残っているのか?

御嶽山噴火と噴火予知

地質時代 第4号 2014年10月発行 第1面 

 9月27日11時52分、秋の登山客で賑わう御嶽山が突如噴火、12名が死亡した。生存者の話では、山頂近くにいた人々は、山小屋や神社の庇に避難する1~2秒差で生死を分けたという。アッという間に火山灰が積もり、呼吸困難に。また、降ってきた石で頭が陥没した人、子供の「苦しいよう」という言葉に父親がはげます声が、やがて聞こえなくなるなど、まさに地獄絵が展開された。翌28日(日曜日)、火山噴火予知連絡会拡大幹事会が開催され、御嶽山噴火の検討が行われた。メンバーは国立大学、国土地理院、気象庁、国交省など。検討結果は、水蒸気噴火であったことが確認された。また、噴火7分前に山体が膨張する現象、火山性地震などが観測された。また9月上旬に一旦、火山性地震が増加したがその後は沈静化しており、火山課長は「前兆をとらえ予知するのは難しかった」と語った。  世界の活火山の7%が日本に集中している。ちなみに、活火山の定義は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義され現在110ある。さらに、2009年6月には、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び社会的影響を踏まえ、「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要のある火山」として47火山が火山噴火予知連絡会によって選定された。これらの火山では、地震計、傾斜計、空振計、遠望カメラ、GPS観測による24時間の観測体制がとられいる。御嶽山はこのひとつ。1~2秒で生死を分けたのであれば、7分あれば警報やサイレンでなんとかならなかったのだろうか?

 

江戸の遺跡

 

地質時代 第3号 2014年9月発行 第2面 江戸の遺跡

左の写真は、最近オープンした「コレド日本橋」の旧東急デパート新館跡地から発掘した18世紀中ごろの商家の遺跡です。小さくてわからないが、石組みの下水、木組みの下水、井戸、穴蔵、など遺構が多数出土した。とりわけ注目すべきは木組みの頑丈な穴蔵です。穴蔵とは、火事が多かった江戸の町で、頑丈な金庫がない時代、貴重な財産を地下に穴を掘って埋めることで守っていたとのこと。写真でみると、江戸時代の建物は現状地盤よりかなり低いところにあります。これは、度重なる火事や地震、そして空襲での瓦礫が堆積したもので、今回の大規模な再開発がないかぎり財宝が埋もれたままになっている可能性は非常に大きいと思います。

 

 

 

左図は、中央区でこれまで発掘された遺跡の地図です。ほとんど江戸時代の遺跡になります。これらは、建設工事の根伐り工事が契機に発見されることが多いようです。掘削工事でもしないと容易と発見できません。今、都心のビルの老朽化が進み、都からは厳しい耐震基準が指導されています。ビルの解体建て替えはこれからが本番。建設会社は江戸トレジャーハンターになるかもしれません。また、日本橋小伝馬町では伝馬町牢屋敷が発掘されました。安政の大獄で吉田松陰や橋本左内らが投獄、その他、平賀源内、高野長英、渡辺崋山、佐久間象山など歴史上の有名人が入牢してました。

広島市土石流災害の悲劇!

地質時代 第3号 2014年9月 一面  

 8月20日に発生した、広島市の土砂災害は、死者72名、行方不明者2名(8月29日現在)という悲劇をもたらしました。 国土交通省の調べでは、全国に土砂災害の危険個所に指定されているのは525,307個所にものぼるとのこと。今回被災した地区は警戒区域どころか危険個所の指定もなかった。行政は危険性を認識しつつも、対策工事を行う義務の発生に逡巡があったようだ。また、警戒個所としてハザードマップにのれば、不動産価格に影響があることもあり、住民説明での確認も必要になってくる。安全安心よりも経済を優先するこのような経済的背景が、被害を大きくした原因ではなかったのか?

 上2枚の写真は、グーグルストリートヴューで見た安佐南区八木3丁目付近の土石流前の町並み。奥の山並みが不気味に住宅地を睥睨しているが、日本のどこにでもありそうな雰囲気。もう一枚は、なんと住宅新築中の工事現場。被災の有無は分らないが、丘陵地の危険地域であることはまちがいない。

 中の写真は、八木3丁目の被災状況。原形がまったくわからない。時速40kmで数千~十万トンの土砂と水と材木と岩石が襲い掛かってきた。 

 

 

 

 

 

下の写真は、安佐南区の八木地区と緑井地区の空中写真。阿武山に裾野から這い登るように宅地開発が進んでいることがわかる。土肌が出ているところが今回、土砂崩れを起こした個所。こうして、高い視点でみると如何に危険であったのか、いや、現在も危険であることに戦慄を覚える。 われわれ地質調査業者の責任は、このような高い視点で危険を喚起し続けることかもしれない。 ご冥福をお祈りいたします。

江戸城無血開城の歴史的経済的社会的背景

地質時代 第2号 2014年8月 二面

大政奉還と勝・西郷会談


  明治維新は、古今東西の革命の例にもれず戦争の産物でした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、野洲梁田の戦い、市川・船橋戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、東北戦争、函館戦争など無数の戦いが全国で戦われた。前後して1868年幕府の血を求める官軍の行進が江戸に向かった。
 当時の江戸は100万都市であり、日本中のモノの基地であった。江戸との物流が地方の生命線でもあった。しかし、日本列島の地形は、山と谷、川と海に分断させられ、その結果幾多の藩が生まれ、戦国時代には覇権を争った。江戸時代になって、農業生産を飛躍的に発展させる土木工事が行われ、農民たちは協力して土木工事に参加し、農村での共同体意識は格段に高まっていった。
 さらに、広重の東海道五三次をみるとそこには各宿場の風景と生き生きとした人々の姿がすべての絵に描かれている。出発の日本橋では様々な職業の人が橋を覆い隠すよう歩いている。終点の京都三条大橋でも同様である。生産力の発展が日本の地形的分断性を物流によって克服させ、江戸を単なる幕府の居城から日本の中心という意識がすべての日本人に共有されていたことが伺える。そのような意識が勝と西郷をとらえ、江戸の壊滅は地方の壊滅に繋がると判断し、無血開城に繋がったように思う。

広重 東海道五十三次 日本橋

広重 東海道五十三次 京都三条大橋