2019年02月

井戸の歴史を探る

平成29年8月15日発行 地質時代第11号 2面

 最近、江戸川区役所から防災用井戸を落札することができた。そこで、井戸の歴史を調べてみた。

  世界最古の井戸は、アメリカ・ニューメキシコ州のクローヴィス遺跡にあるもので、紀元前1万1500年ごろ、直径は60cm、深さは1.4m。クローヴィス文化は石期(旧石器時代に相当)、狩猟と採集にたよる生活で、パレオ・インディアンと呼ばれた。  

 日本最古の井戸は、鹿児島県にある玉乃井。神武天皇の祖父山幸彦が豊玉姫と出会った場所がこの井戸らしい。しかし、神話に関しては、出雲地方も黙っていない。大国主大神が八上姫に産ませた御子に産湯をさせるため三つの井戸(生井、福井、綱長井)を掘った。 二つの神話の共通点は、男女の出会いの場=生命の根源が井戸という場所にふさわしいということか。

  愛媛県西条市の自噴井戸 愛媛県西条市のHPに「水の歴史館」がある。これは、西条市が豊かな水環境を持ち、この水の文化を大切にしていることが伺える。西条市では江戸時代後期から「ぬきうち」工事が盛んに行われている。その代表的工法が「金棒掘り」で十字に組んだ丸太棒を万力のような金具で金棒に接続し、13~14人ぐらいで所定の高さまで持ち上げては落とすという掘削方法(金棒を使った人力による肩掘り)だった。 西条市内には、広範囲に地下水の自噴井があり、これらは「うちぬき」と呼ばれており、その数は約3,000本といわれている。  その昔、人力により鉄棒を地面に打ち込み、その中へくり抜いた竹を入れ、自噴する水(地下水)を確保した。この工法は、江戸時代の中頃から昭和20年頃まで受け継がれてきました。「うちぬき」の名の由来である。  現在は、鉄パイプの先端を加工し、根元に孔を開けたものをコンプレッサーによるエアーハンマーを使用して、地下水層まで打ち込み、地下水を取水している。  「うちぬき」の一日の自噴量は約9万m3におよび、四季を通じて温度変化の少ない水は生活用水、農業用水、工業用水に広く利用されている。この「うちぬき」は、名水百選に選定されている。

治水の神様 兎王と田中丘隅

平成29年8月15日発行 地質時代第11号 1面

 

 異常気象による局地的豪雨や台風の頻発により、日本の土木事業、なかでも治水事業の重要性がますます増してきている。人類の歴史は自然との闘いと共存であった。それは、中国の神話時代(堯、舜など)の逸話の中に現れている。
禹王の伝説
 禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。
舜は、名は文命、姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成した。
 時が過ぎ、紀元前4世紀ころ活躍した孟子は、楊朱(儒家や墨家に対抗した個人主義的思想家)という人物を批判して「楊朱という奴は、すねの毛を一本抜けば天下が救われるという場合でも、その毛一本さえ抜かない」と言った。その意味は、楊朱は自分のことしか考えない奴だ、ということだ。これは、禹が治水のため泥の中を這い回った結果、すねの毛が全部抜け落ちたという話が前提になっている。
田中丘偶の業績
 郷土歴史家の大脇良夫氏の調査では、日本全国22箇所に中国古代の伝説の王朝、夏(紀元前2100年~1600年ごろ)の開祖禹王の名が記された治水碑及び地名があるという。その中に、神奈川県酒匂川の治水神として、禹王が祀られている。南足柄市大口の福沢神社に文命東堤碑と文命宮が地元有志の手によって守られている。この文命宮を作ったのが田中丘偶(1662~1730)であった。
田中丘偶は今のあきる野市に商人の子として誕生、22歳の時、東海道の宿場のひとつ・川崎宿で下本陣をつとめていた田中兵庫(たなかひょうご)の娘むことなり、45歳で田中家を相続。六郷の渡しの独占権を獲得するなど、財政難だった川崎宿をみごとに再建させた兵庫が、河川土木の勉強を始めたのは50歳を過ぎてから。江戸時代の有名な学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)に学び、民衆の視点で治水などについて意見した「民間省要(みんかんせいよう)」が8代将軍吉宗に認められ、幕府の治水事業に携わるようになったのは61歳の時だった。
 丘隅は、享保9(1724)年から多摩川下流右岸の大丸用水と稲毛川崎二ケ領用水の改修、下流右岸の小杉の瀬替え(蛇行部のショートカット)、享保14(1729)年からは下流の連続堤の築堤を行い、「丘隅をして多摩川流という河川土木技術を起した」(「新多摩川誌」)と言われるほど、全国の河川土木技術に大きな影響を与えた。
 丘隅の最後の仕事となったのが現在の川崎区旭町あたりから大師河原までの多摩川下流右岸の堤防改修工事。この工事によって、多摩川の下流部の連続堤が完成したものと見られ、今も多摩川の下流部にえんえんと続く堤防の基礎がつくられた。この田中丘偶の業績を見るとき、その根底には治水事業によって民を守った禹王への崇拝が見て取れる。つまりは禹王と孟子の思想が田中丘偶の思想になり、この思想が物質的な力となって丘偶をしてこの治水事業を動かしたのではないだろうか?

九州北部豪雨による土砂災害

平成29年7月15日発行 地質時代第10号 1面

異常気象が地形を変える  

 梅雨前線や台風第3号の影響により、九州北部地方を中心に局地的に猛烈な雨が降り、大雨となった。特に、7月5日から6日にかけては、対馬海峡付近に停滞した梅雨前線に向かって暖かく非常に湿った空気が流れ込んだ影響で、九州北部地方で記録的な大雨となった。これまでの1時間の最大雨量は、福岡県朝倉(あさくら)で129.5ミリ、長崎県芦辺(あしべ)で93.5ミリ、高知県大栃(おおどち)と大分県日田(ひた)で87.5ミリを観測するなど猛烈な雨となったところがある。これまでの24時間の最大雨量は、福岡県朝倉で545.5ミリ、長崎県芦辺で432.5ミリ、大分県日田で370.0ミリとなるなど、九州北部地方では350ミリを超える記録的な大雨となっている地域がある。 この豪雨の影響で山間部の急斜面が崩れ、大量の土砂と立木を下流部に押し流し、死者32名(7月15日現在)を超える大災害となってしまった。これは、局地的に大雨を降らす地球温暖化が引き金になっていることは間違いない。

世界最大の地滑り事故は地質技術者の失敗から  

 1960年、イタリア北東部のバイオント川の渓谷に262mの提高のダムが建設された。貯水直後から地滑りが頻発するようになり、ついに1963年10月9日大規模な地滑りが発生した。貯水湖になだれ込んだ土砂に押流され水が津波となってダム下流の集落に壊滅的被害(死者2500人)をもたらした。2008年ユネスコは地球科学の理解が重要であることを示す『五つの教訓と五つの朗報』の教訓の筆頭に「技術者と地質学者の失敗」によって引き起こされた事例としてこのバイオントダム災害をあげ、山腹の地質に対する適切な理解があれば防ぎえたとした。ダムと豪雨では経緯はまったく違うが、山腹の地質的な理解については同じ問題をはらんでいて、地球温暖化によるゲリラ豪雨と日本の地形的特性を理解し、適切な砂防対策が求められる。あらゆる土砂災害の土台には、地質に対する科学的知識と責任感が何よりも求められることを教えている。

砂防の歴史  

 万葉集の時代、藤原宮造営時(676年~704年)に社寺の建築のため田上山(滋賀県大津市)等から良材を伐採した様子が万葉集に歌われている。 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ その後、山腹の荒廃が深刻化したと思われる。  明治維新後、荒廃した山腹を改良するために、藩政時代の技術革新をはかるためオランダを中心に外国人技術者が招聘された。なかでも明治6年(1873年)に来日したヨハネス・デレ-ケは、17種の工法を案出するとともに、日本各地の流域を踏査し、30年の長きにわたり、わが国砂防工事の指導を行った。 ヨーロッパの砂防技術の導入により、内務省技師であった赤木正雄の手により更なる発展を遂げた。彼の設計した成願寺川の白岩砂防堰堤が有名である。  全国に52万5307箇所の土砂災害危険箇所があり(平成14年現在)、そのうち最も多いのは、広島県の3万1987箇所、ついで島根県、山口県、兵庫県と続き、大分県が1万9640箇所と5番目に多くなっている。

古代・中世の利根川と隅田川

平成29年6月6日発行 地質時代第9号 2面

 今の利根川は千葉県銚子市で太平洋に注いでいる。古代・中世には、猿が又(葛飾区水元)、亀有付近で三川に分流して江戸湾(東京湾)に注いでいた。猿が又で東に分かれた流れは太井川に合流する。太井川は渡良瀬川の下流で、今の江戸川である。亀有でそのまま南下する川が中川であり、西へ分かれる川が隅田川(古隅田川)だった。この古隅田川は消滅したが、今の足立区と葛飾区の区境線に沿うようにして流れ、鐘ヶ淵(墨田5丁目)のあたりで入間川に合流した。埼玉県飯能市に源を発する入間川の流路が今の隅田川である。  荒川もかつて埼玉県岩槻市付近で利根川に合流していた。1629年、荒川の河道を入間川に移した。入間川に荒川が合流する川越市古谷から下流も荒川に呼ぶようになった。明治44年、洪水対策のため北区岩淵で東に分流させる工事が始まり、昭和5年に完成した。これが荒川放水路であり、今の荒川である。

江戸都市化の治水工事 利根川東遷

平成29年6月6日発行 地質時代第9号 1面

 

関東の連れ小便
 1590年夏、秀吉は、一夜城で知られる小田原石垣山の山頂で放尿しながら、家康に関東八カ国(相模、武蔵、上野、下野、上総、安房、常陸)と家康所領(駿河、遠江、三河、甲斐、信濃)との国替えの話を持ちかけた。銀座の一等地からアマゾン奥地の交換を持ちかけられたようなものだった。当事、江戸城の東と南は海、西側は茫々たる萱原、北だけが緑色に盛り上がった台地であった。しかし、北側から何本もの川が流れ込み、江戸を泥地にしていた。秀吉としては家康の力を削ぐつもりだった。家康の家臣団はこぞって反対した。しかし、家康はこれを受けた。土木的は知識も少なかった時代、これは地政学的な戦略や何か展望を持っていたのではなく、力の論理で仕方なかったのではないだろうか。

最初の都市計画会議
 江戸の都市計画をめぐり、家臣たちの提案が続く。本多忠勝は、山を削って湿地を埋め立てようと提案。土井勝利は、江戸に流れ込む何本もの川の築堤を提案した。しかし、家康が採用したのは、かつて三河国の一向一揆で家康に背いた伊奈忠次の案だった。すなわち、江戸に流れ込む前に川を曲げる。というものだった。伊奈は、関東平野を2年にわたり調査した結果、その大本は利根川にあることを突き止めた。利根川を東に曲げ、渡良瀬川と合流させ浦安に流すというもの。完成の1621年まで着工から27年の歳月が流れた。結果として与えられた環境の中で最善を尽くすことが、思いもしない可能性を切り開いたことになった。

江戸のフロンティア精神
 アメリカ合衆国の発展は、ヨーロッパの古い因習に縛られず、未知の大地に自由にその能力を発揮できたからだと、どこかで読んだ気がする。家康も駿河にいたままでは、天下は取れなかったのではないだろうか?関東という未開の地に対するフロンティア精神があったからこそ、江戸260年の礎を築くことができたように思う。その点で、『アメリカンファースト』は『引きこもり精神』とでも呼ぶべきものではないだろうか。

浮き上がる!?上野駅と東京駅

平成29年5月6日発行 地質時代2面

江東区、墨田区、江戸川区の観測井の地下水変動図

 

 上のグラフは弊社が東京都土木技術・人材支援センターより受注し、平成28年1月から平成28年12月測定した業務の一年前の地下水位の変位データです。これによると、下町地区で昭和38年から47年に最大T.P.-58mだったのが平成27年にはT.P.-5m程度まで約43m近く地下水が上昇(回復)しています。

  東京都では、昭和28年から毎年継続して地下水や地盤沈下を測定していますが、このような地下水の回復は、地盤沈下を収束させており地下水の取水規制の大きな成果といえます。 地下水上昇で浮き上がる駅舎を守る ① 新幹線の上野地下駅は地下4階建てで、地下30mの東京礫層を基礎としています。地下水位は設計時の昭和54年(1979年)には地下38mと基礎下8mにありましたが、平成6年(1994年)には地下14mまで上昇、さらに11.5mまでになり、専門家の計算では、なんと駅舎そのものが浮き上がることが明らかになりました。その対策が3万トンの鉄の錘を地下4階のホーム下に積み上げて並べました。2tの直方体の鉄の塊を15000個並べたとのことです。地下水の長期にわたる地道な測定が着工前に対策を立てられた大きな要因のように思います。

 ② 総武快速線の東京地下駅は地下5階建てで、地下27mで江戸川砂層の上に直接基礎で作られました。建設時の昭和47年(1972年)の地下水位は地下35mでしたが、平成10年(1998年)には地下15mと20mも上昇しました。このままあと1m上昇すると床の損傷が起き、あと2.5m上昇すると地下駅全体が浮き上がると予想されました。対策として上野駅のような錘方式が検討されましたが、地下水圧のもとでも施行できる新たに改良されたアンカーが費用と機能で優れていると判断されアンカー方式が採用されました。基礎と支持地盤とを接合し、1本のアンカーで100tの水圧に耐えられるものを130本うち、費用は上野駅の三分の一で済んだとのこと。水圧を受けながら掘削する技術革新が経費削減につながったようです。

ローマ帝国と秦帝国の道路の歴史『猿百匹の現象』

地質時代第8号 平成29年5月6日発行 1面

 

 英国の科学史家ジョセフ・ニーダム(1900-1995)は『紀元の前後数世紀における世界で、一つはイタリア半島の一角(古代ローマ)に、もう一つは中国で黄河の山西山脈の屈曲部あたり(長安)に、それぞれ(都市の)中心部から樹状に延びる道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった』と記している。  

 古代ローマの道路網は「すべての道はローマに通ず」のことわざに名高い、BC.312のアッピア街道の建設からはじまりトラヤヌス帝(98-117)時代には総延長29万キロ、主要幹線8万6千キロ(現在の米国は9万キロ)であった。道路のネットワークとしての機能を創造したのはローマ人であった。その目的は、軍隊の配置、役人の公用、生産物の輸送、民間人の移動であった。  

 秦の始皇帝の道路網は、始皇帝が燕・韓・趙・魏・斉・楚(六国)を征服した翌年のBC.220に開始された。皇帝のみが通る道で「馳道」と呼ばれた。「馳道」は秦の首都咸陽を中心にして諸侯列国の首都を連接し、さらに全国に延びるものであった。その延長は7481キロとローマの十分の一であったが、その建設期間はわずか10年ほどであった。その目的は、全国統一と六国の貴族の復活の阻止、六国の財宝を咸陽に輸送すること、阿房宮ほか700ヶ所の宮殿建設の資材運搬をするためであった。もっぱら皇帝の私利私欲のための「馳(ち)道(どう)」であった。

 ローマの歴史1000年に対し、秦はわずか40年の背景には、道路をいかに使うのかに大きな差が生じたようである。(参考:中央新書 道路の日本史 武部健一著より)  そこで、最初のニーダムの問題提起『~道路交通網がお互いに何の関連もなく広がった。』の一節でふと頭をよぎったのが『百匹目の猿現象』である。これは、宮崎県串間市の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られるようになったという現象である。ウィキペディアによると、この現象に対して、「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」(船井幸雄の見解)という見解があり、もう一つは、「実際には存在しない現象で、疑似科学に分類される」(ウィキペディアの立場)というものである。この二つの見解は相反するようで実は同じ観念によって支配されている。前者は「そうあってほしい」という願望であり、後者は「そんなことは証明されえない」という思惑である。私には、両者とも同じ意見に聞こえてくる。本来ニホンザルの主食は果実、草食の樹上性のものであった。イモを食いだしたのは、戦後の食糧難の時代であり、森林伐採と都市化が進み、サルとて例外ではなかった。畑のイモはそれに変わるものだった。樹上のものは洗わずとも食えた、しかし畑のものは土だらけである。洗うのは当然ではないだろうか?どこのサルも食糧難、どこのサルも畑に目をつける、土がつけば洗う。つまりは、「戦後の食料難の時代が生み出したもの」というのが私の見解である。道路も同じ、「天下統一という歴史時代が生み出したもの」これが「何の関連もなく広がった」理由ではないだろうか?