コラム

宝暦治水工事の悲劇『孤愁の岸』

2018年1月15日発行 地質時代第16号 2面

 

杉本苑子「孤愁の岸」

「孤愁の岸」は、宝暦治水工事と呼ばれる江戸時代に木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川の治水工事を命じられた薩摩藩の激闘を描いた小説で、主人公は薩摩藩の工事責任者である家老平田靭負(ゆきえ)です。 宝暦治水工事は、1754年宝暦4年から5年にかけて、木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曾三川の洪水を防ぐために行われた治水工事です。 木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。 1753年(宝暦3年)12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に手伝普請という形で正式に川普請工事を命じた。当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。  同年4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。また幕府側上部の思惑に翻弄されるなどして、内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに、人柱として1名が殺害された。幕府はさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。その結果、慣れない土地での過酷な労働の為、病死する人も続出した。 「孤愁の岸」では「屠腹した者50名、病死者202名」と書かれている。こうした非常な困難の中でも、薩摩藩士は、ひたすら辛抱し工事を続行した。そして、ついに工事開始の翌年宝暦5年5月にはすべて工事が完了した。工事の出来栄えは素晴らしく、工事検分にあたった幕府役人からは賞賛の声があがった。工事が終わった藩士たちは、薩摩または江戸に帰っていく。その早朝、平田靭負は、現地の総指揮所であった美濃大牧の役館で、割腹した。そして、「孤愁の岸」は、平田靭負の遺骸が、船に載せられ木曾川を下るところで終わる。 辞世の句「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」多大な犠牲への悔悟の情を隠しているように思う。

平田靭負(ゆきえ)

歴史を変えた大噴火

2018年1月15日発行 地質時代第16号 1面

 

 23日に噴火した群馬・長野県境の草津白根山の火口は、従来警戒を強めていた「湯釜」ではなく、気象庁が3000年間も噴火していないと見ていた2キロ南の「鏡池」付近だった。火山活動の事前の現象もなく、まさに寝耳に水の災害。自衛隊員一名が亡くなられたが、他の隊員を庇って噴石に当たったようです。ご冥福をお祈りすると同時に献身的な行動に敬意を表します。  

 火山噴火は大きな災害です。噴火によって歴史が変わった事実を調べてみました。

1.7万4千年前 インドネシア北スマトラ州 トバカルデラの世界最大級の大噴火 

 インド、パキスタン、中国にも火山灰が降り注いだ。グリーンランドの氷床コアからも検出。 寒冷化は6000年続き、ヴュルム氷期に突入した。この噴火と同時期に、ヒトDNAの多様性が著しく減少する「ボトルネック(遺伝子多様性減少)」が見られることから、この噴火で当時の人類の大半が死滅したという『トバ・カタストロフ理論』が生まれた。

 

 

2.紀元前1628年 ギリシャ エーゲ海キクラデス諸島南部サントリーニ島 海底火山の爆発的噴火(ミノア噴火)によって30m級の津波によってクレタ島で栄えたミノア文明が打撃を受け衰退の原因となった説がある。また、寒冷化によって中国の夏王朝滅亡の要因説もある。プラトンのアトランティス伝説のモデルとなった。

 

 

 

3.紀元79年 イタリア ヴェスヴィオ火山 麓の都市ポンペイ(人口2万人)が厚さ7mの軽石に埋没した。

 

 

 

 

4.紀元535年 クラカタウ(インドネシア) この巨大噴火による気候変動が、東ローマ帝国の衰退、ペストの蔓延、ゲルマン民族の大移動、マヤ文明の崩壊の発端となったとBBCのドキュメンタリーで放映された。

 

 

 

5.紀元1783年 ラキ火山(アイスランド) 噴火によって1億2千万トンの有毒な二酸化硫黄を含んだ火山灰がヨーロッパやアメリカ大陸を覆った。翌年には寒波が押し寄せフランスの植民地であったアメリカ南部が凍りついた。食料不足が深刻化し、フランス革命の原動力になったと言われている。

地質が主役の映画

2017年12月15日 地質時代 第15号 2面

 

「黒部の太陽」 1968年 監督 熊井啓 音楽 黛敏郎製作 

三船プロダクションと石原プローモーションそして宇野重吉の民藝の全面協力、人件費は500万円。 トンネル工事のシーンが多いが、再現セットが愛知県豊川市の熊谷組の工場内に作成された。出水を再現する420トンの水タンクもあった。出水事故があり、石原裕次郎他数人が負傷した。 この時の撮影は、切羽(トンネル掘削の最先端箇所)の奥から、多量の水が噴出する見せ場であった。水槽のゲートが開かれると、10秒で420トンの水が流れ出し、役者もスタッフも本気で逃げた。三船は、水が噴出する直前に、大声で「でかいぞ」と叫び、裕次郎らと走るが、そのときの必死の姿をカメラがとらえていたので、撮影は成功した。監督の熊井は、もし、三船が恐怖のあまり立ちすくんでいたら、撮影も失敗で、死傷者も出たかもしれないと回想している。大洪水の中でも仁王立ちとなって演技をした三船の姿が、30年以上たった今も瞼に焼き付いていると語った。

「日本沈没」 1973年 2006年 原作 小松左京

地球物理学者・田所雄介博士は、地震の観測データから日本列島に異変が起きているのを直感し、調査に乗り出す。深海調査艇「ケルマデック (Kermadec)」号の操艇者・小野寺俊夫、助手の幸長信彦助教授と共に小笠原諸島沖の日本海溝に潜った田所は海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見する。異変を確信した田所はデータを集め続け、一つの結論に達する。それは「日本列島は最悪の場合2年以内に、地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈没する」というものだった。 最初は半信半疑だった政府も紆余曲折の末、日本人を海外へ脱出させる「D計画」を立案・発動する。しかし、事態の推移は当初の田所の予想すら超えた速度で進行していた。各地で巨大地震が相次ぎ、休火山までが活動を始める。精鋭スタッフたちが死に物狂いでD計画を遂行し、日本人を続々と海外避難させる。一方、敢えて国内に留まり日本列島と運命を共にする道を選択する者もいた。 四国を皮切りに次々と列島は海中に没し、北関東が最後の大爆発を起こして日本列島は完全に消滅する。

「2012」 2009年 監督 ローランド・エメリッヒ 2009年

インドの科学者サトナムは、地球内部が加熱され流動化が進んでいることに気が付き、数年後に地球的規模の地殻変動により大破局が起きることを突き止める。科学顧問のエイドリアンから世界の終末を伝えられたアメリカ大統領のウィルソンは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、日本、カナダの首脳に事実を報告。先進国は極秘裏にチョーミン計画を実行し、世界各地の歴史的な美術品を後世に残すために、密かに偽物とすり替え運び出し始めた。やがて、先進国が極秘裏に進めていた「ノアの箱舟」計画こそが生存への唯一の道だと知った主人公らは、ノアの箱舟の建造地である中国に向かう。

世界最古の水道施設 エルサレム シロアム水路とビゼキアトンネル

2017年12月15日 地質時代第15号 1面

 

 トランプ大統領の首都移転宣言で大激震が起こったエルサレム。グーグルアースで覗くと、大きな川もなく岩盤質の地形になぜこんな宗教都市ができたのか調べてみた。  この地域は丘陵地帯で標高800mほど。雨季(冬)と乾季(夏)に別れ、年間降水量は600㎜程度の乾燥地帯。黄土色の荒野である。

 ここにキリスト教の『聖墳墓教会』=キリストが磔にされたゴルゴダの丘、ユダヤ教『嘆きの壁』=ローマ帝国に従属したユダヤのヘロデ王の神殿、イスラム教『岩のドーム』はムハンマドが立ち寄ったとされる岩が隣り合って存在している。  『旧約聖書』の『サムエル記』によれば、ユダヤのダビデ王はエルサレム攻撃の際「エプス人(先住民)を撃つものはすべて[ツィンノール]をもってせよ」と言ったと書かれている。これは、「ギボンの泉」と呼ばれる湧水で、今でも湧き出ている。この水源に至る地下トンネルから攻めあがったのかも知れない。カナン人は地下に隠した水源を要塞で覆って隠していた。その竪穴は発見者の名をとって「ウォレン・シャフト」と呼ばれている。  似たような場所がパレスチナ自治区にもあり「ギベオンの水槽」と呼ばれている。これは、粘土質の地盤に直径11m、深さ11mの穴を掘り、周りにらせん状の階段が作られている。  

 三代目ビゼキア王の時代、アッシリアが攻め込んできた。このアッシリアの脅威に対抗するため、ギホンの泉の水を、城内のシロアムの池まで引くトンネルを完成させた。ギホンの泉は、ダビデの町と向かい側のオリーブ山の間を分かつギドロンの谷にあり、その場所はダビデの町の崖下にあたる。当時、ギホンの泉からあふれ出る水は地表のシロアムの水路を流れてシロアムの池に流れ込んでいた。この水源を外敵から守るためにトンネルを掘りぬいたのである。 ヒゼキア王のトンネルは約2700 年前に建造された、現存する世界最古の水道施設の一つである。全長532m、勾配は0.4%、両側から掘りはじめ、北から1/3あたりで接合している。接合部では、両側から声を出しながら方向を調節したのか、坑道が左右にギザギザと屈曲している。このトンネルは現在も健在で、ギホンの泉は下流のシロアムの池に向って流れ続けている。

 この豊富な地下水なくしてエルサレムは歴史に刻まれる都市にはなりえなかった。日本人なら井戸の神様と称えるところだ。しかしフェニキア人の商才、古代ギリシャ哲学の一元論、エジプトの一神教が混ざり合い、古くはエジプトやローマ帝国、イスラム帝国に揉まれ、英国の三枚舌外交や米国のユダヤ資本(ロスチャイルドやゴールドマンサックス)に利用され続けるためには宗教を口実にしなければ存在できない都市がエルサレムなのだろう。

魅惑的な粘土の歴史と未来

2017年11月15日発行 地質時代 第14号 2面

 

●土偶と土器(粘土を支配) 日本最古の土偶は、約1万2000年前のものとされ、三重県松阪市で見つかりました。土器は、700~900℃の温度の野焼きで作りました。世界最古の土器は、今から約2万年前のものとされ、中国の洞窟遺跡で発見されました。

●粘土板(記

曜変天目茶碗(南宋12~13世紀)

300年分のレアアース泥が眠る南鳥島の海

録装置として) 3750年前のメソポタミアでは、粘土で作った粘土板に、楔形文字を刻み、銅の塊りを買った人が売った人に対して、その品質の悪さに「この商品は粗悪品過ぎるので、お金を返せ」との手紙であることが分かりました。

●陶器と磁器(芸術文化として) 陶器の原料は土器と同じ粘土で、窯で1100~1300℃の温度で焼いたもの。光を通すことはなく、水を吸い、厚手で重く、叩いたときは鈍い音がします。日本の伝統工芸を代表する陶器としては、瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波立杭焼、備前焼が知られ、これらは日本六古窯(ろっこよう)と呼ばれています。磁器は、粘土を含む陶石を砕いたものが用いられ、窯で1300℃程度の温度で焼いたものです。光を通すものが多く、水を吸いにくく、とても硬く、叩いたときは金属音がします。代表的は、伊万里焼、九谷焼などが知られています。

●レンガと瓦(建設資材として) 建設に使われているレンガや瓦も、粘土で作られています。レンガは、紀元前4000年~紀元前1000年のころは、粘土を乾かしただけの日干しレンガとして誕生。した。瓦の歴史は古く、日本には588年に、百済から仏教と共に伝来したと言われ、奈良県にある飛鳥寺で初めて使われたとされています。現存する日本最古の瓦は飛鳥時代のもので、元興寺の極楽坊本堂と禅室の屋根の瓦です。

●高レベル放射性廃棄物の地層処分(核のゴミ) 原発の使用済み放射性廃棄物の処分は、地下深い安定した地層に封じ込める地層処分が、最もよい方法されています。その際には、ガラスと一緒に固め、金属製の容器に入れ、その周辺を粘土で覆うという方法がとられる予定です。地上から300m以上の深い所に処分し、10万年以上にわたって人間社会から隔へだて、影響を与あたえないようにします。

●水素の製造(未来のクリーンエネルギー) 水素を製造する一つに、太陽光と水とセラミックス光触媒を使う方法があります。このセラミックス光触媒に粘土が使われています。

●有害物質の分解(汚染の除去) アロフェン粒子(粘土)と酸化チタンを混ぜ合わせて、有害物質を分解する技術が研究されています。

●皮膚の再生(安価な医療材料) スメクタイトと呼ばれる粘土鉱物を用いて皮膚を再生させる技術が研究されています。皮膚の主成分であるコラーゲンや血管の形成、細菌を吸着し、皮膚が硬くなることを防ぐ効果があるとのこと。

●夢の粘土(資源として) 現在、レアアースのほとんどは、中国で生産されています。ところが、2011年に、小笠原諸島にある南鳥島沖の排他的経済水域の海底で、レアアース泥が発見されました。推定される埋蔵量は中国の30倍で、日本が必要とする量の300年分以上とされています。レアアース泥は、水深5000mより深い海底にあるため、船からパイプを海底まで降ろし、空気を送って、戻ってくる空気と一緒に採取する方法が考えられています。

 

祝! 地球史にチバニアン当確!!

2017年11月15日発行 地質時代 第14号 1面

 

 地質というと、とかく地震や噴火などの負のイメージが強い中で、このニュースはなんとも明るいものです。これを発見した地質学者の熱意やその土台を築いた研究者たちの地道な積み重ねの賜物と思います。 地質学にはノーベル賞がないため『命名』こそ最高の賞かも知れません。これまで、あまりに学術的すぎていた地質区分が一挙に身近になった気がします。  今回は地質と人間の歴史について調べてみました。

① 石器時代:どこに行けば加工に適した石や土の産出場所等の最初の地質への認識が生まれた。

② 青銅器・鉄器時代:鉱石を利用した金属製道具の作成=鉱物の性質の把握と加工技術の確立。

③ 四大文明:ナイル川、チグリス川・ユーフラテス川、黄河、インダス川がもたらした肥沃な土壌により農耕が発展。土壌のもたらす恩恵の利用。

④ ギリシャ哲学:レウキッポス、デモクリトス、エピクロス、ルクレティウスなどの唯物論哲学が演繹的な自然科学の扉を押し開けた。

⑤ ローマ時代:ローマ帝国の拡大のなかで広範囲な自然に対する認識が深まった。プリニウスの「博物誌」、スイトラボーは火山による山岳成因説、川の侵食作用などを考察した。セネカは火山を地球内部の溶けた物質が地表に現れたものとした。哲学が帰納法的認識の背景にあった。

⑥ ルネッサンス期:レオナルド・ダ・ビンチは芸術家であると同時に自然科学でも優れた実績を残した。湾曲した川の両岸における流速の違いと堆積物の研究、礫や地層の研究を行った。アグリコラは「鉱山書」の中で、探鉱術、冶金術、鉱床、鉱脈、断層について記し、「鉱物学の父」と呼ばれている。地質の法則性の発見へ。

⑦ 産業革命期:デンマーク人のステノは化石の研究から地層の生成を考察し「層位学の父」と呼ばれた。ウエルナーの水成論による層序の統一性の発見、不整合を発見したハットン、英国の地質図を作った「層位学の父」スミスなど。地質学における進化論の確立。

⑧ 現代:「人新世(アントロポセン)」の誕生。これは地質調査の報告書に地質区分を載せていますが、現在の地質時代は、17,000年前にはじまった、新生代第四期完新世という括りになります。しかし、この時代はすでに終わり、人類の活動が火山の大噴火に匹敵する地質学的な変化を地球に刻み込んでいることを現す新造語です。(まだ正式には認められていませんが)これは、オゾンホール研究でノーベル賞を受賞した大気科学者パウル・クルッツエンが提唱したもの。この時代は1950年から始まるとのこと。

大工の神様 聖徳太子

2017年10月15日発行 地質時代第13号 2面

 

聖徳太子から福沢諭吉へ

聖徳太子の業績は、冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣などが上げられますが、歴史研究の発展により、実はこれらは、太子一人の実績ではないことが明らかになってきたようです。そこで教科書では、聖徳太子の表記を止め、厩戸王と表記するようになったようです。しかし、この時代の天皇の摂政として存在していたのは確かなようですが1万円札の肖像としての復帰は難しいかも知れません。

仏教による国づくりの象徴としての聖徳太子

当時の日本が国づくりを進める中で、大陸の宗教や立法、身分制度を参考にしたのは間違いない。しかし、それは自然に入ってくるものではなく、明確な目的意識と行動を必要としたはずだ。それを取り入れた英雄こそ、聖徳太子的な人物だったのではないだろうか?(もし、ナポレオンが生まれてこなかったら、歴史は別のナポレオンを生み出した)

大工の神様 聖徳太子

11月22日は「大工さんの日」です。11月が「技能尊重月間」、十一を合せると「建築士」の「士」の字になること。22日が聖徳太子の命日(622年2月22日)さらに11は二本の柱、二は土台と梁と見なして「大工さんの日」としたようです。 孟子の教えに「規矩準縄(きくじゅんじょう)」という言葉があります。物事や行動の基準、手本を正しくすることを意味するとのこと。 ここから発して大工の伝統技術に規矩術(きくじゅつ)というものがあり、大工の数学のようなもので、「規」とは「円を描く」、「矩」とは「方向、直角」、「準」とは「水平」、「縄」とは「垂直、鉛直」ということを意味し、家造りの最も基本となるキーワードです。更に、大工道具のことも指しているそうで、『規=定規』『矩=差し金』『準=水盛り』『縄=墨縄』となります。 この中の『矩=差し金』を日本に持ち込んだのが聖徳太子とのことです。 法隆寺のような建造物を初めて日本に作るためには、道具と技術の伝承は絶対的に必要だったことは間違いない。 道具は現物でよいが、技術はどうしたのか?聖徳太子は太子講といって、大工を集めて建築の講義のようなものをしていたそうです。 当時の政治家はテクノロジーの優れた伝承者でもあったようです。

法隆寺の驚異の制耐震技術!

平成29年10月15日発行 地質時代第13号 1面

 

柿食えば 鐘が鳴るなり 

法隆寺 世界最古の木造建築物である法隆寺は仏教布教のため聖徳太子によって608年建立された。「大化の改新」では仏教興隆の恩人である蘇我氏が滅ぼされた。670年落雷にて消失。すぐに再建された。1600~1606年慶長大修理、1692~1707年桂昌院による大修理、明治時代の{廃仏毀釈}では回廊内に牛馬を繋がれる状況に陥った。昭和の大修理(1933~1953年)で当初に近い復元ができた。様々な政変を乗り越えさせた原動力は日本人の「聖徳太子」信仰が法隆寺を守り続けたかのようだ。

法隆寺を支える地盤について

法隆寺はマグニチュード7.0以上の地震を46回も経験し、乗り切ってきた。その最大の要因は、地形地質である。この地域は砂礫質台地と呼ばれる地形で、隆起によって生じた段丘を形成し、表層に約5m以上の砂礫層、砂質土層を持つ安定した地盤。つまり揺れにくく、液状化しない場所を選定したことになる。建設担当者に地盤や基礎に対する経験と知識があったことは間違いない。

日本独自の建築技術「心柱」の確立

第一は、日本は雨の多い国で中国の年間降雨量の約2倍だ。このため、雨水が建物から流れ落ち、土台周辺の土壌に降り注ぐと、五重塔がいずれ沈んでしまいかねない。これを防ぐために、大工たちは、庇を壁からかなり離して長く造った。建物の全幅の50%以上にもなる軒だ。この巨大に張り出した部分を支えるために、片持ち梁を庇ごとに採用している。 第二は、建造物の著しい燃えやすさへの対抗策として、庇には瓦が積まれ、木造建築物に火が燃え広がらないようになっている。 第三は、法隆寺の五重塔は、現代建築に見られるような、中央の耐力柱がない。上に行くほど細くなっていく構造のため、耐力垂直柱で繋げている部分は一つもない。 各階が強固に繋がっているわけではなく、ただ単純に重ねたところを取り付け具でゆるく留めているのみなのだ。この構造は実際、地震国では大変な強みになる。地震の際、上下に重なり合った各階がお互いに逆方向にくねくねと横揺れするため、強固な建物にありがちな揺れ方はせず、振動の波に乗った液体のような動きになる。 第四に、一方で、あまりにも各階が柔軟になりすぎるのを避けるために、大工たちは、とある独創的な解決法に行き着いた。これが心柱だ。見た目は、大きな耐力柱のようだが、実際にはこれは建物の重さをまったく支えていない。心柱は、まさに自由な状態で吊り下げられているだけなのだ。心柱は、大型の同調質量ダンパーの役割となって、地震の揺れを軽減する助けとなっている。各階の床が心柱にぶつかることで、崩壊するほどの横揺れを防ぎ、揺れもいくらか吸収している。言うなれば、基本的には、十分な質量のある不動の振り子であり、より軽い各階の床があまりに自由に横揺れしすぎないように歯止めをかけている。 現在でも、これと同じダンパー技術が使われているスカイツリーのほかに台北101(台北国際金融センター)は、92階から巨大な、730トン4階分の鋼鉄の振り子をぶら下げ、強風でビルが横揺れするのを防いでいる。ニューヨークのシティコープ・センターもまた、ハリケーンの際の揺れを防ぐのに、400トンのコンクリート・ブロックを使用している。

大林組による三内丸山遺跡の工学的分析

 

平成29年9月15日付 地質時代第12号 2面

 

 

①人口の想定 : 常時住んでいた住民の人口を400~500人とした。大型建造物の建設を可能にするには、一人あたりの作業負担量を25~30キロとして、1回の仕事量 を6~7トンとすれば、実際の重労働に参加できる成人男性の数は200~280人となり、総人口はその倍になるという勘定だ。

②土木工事の想定復元 : 縄文時代の常識からすればケタ違いの土木作業の痕跡が幾つも認められる。一つは道路である。日本最初で最古の土木工事の施工例だ。 その施工の規模は以下のようになる。 A.盛り土の土量(平均値を採用) 1,600立方㍍ B.施工に必要な員数(モッコ)1,824人工+敷き均しと締め固め267人工 合計すると3,691人がこの施工に必要な延べ員数となる。

③建物の想定復元 :大型の掘立柱建物跡以外にも、三内丸山遺跡では多くの建物跡が発掘されている。多くは通常の竪穴式住居跡だが、その中に、倉庫と見られる高床式の建物や、超大型の竪穴式大型住居跡(通称ロングハウスと呼ばれる。)も見つかっている。偉容とよぶにふさわしい姿である。それは大変な手間と計画を要求された施工であっただろうと思わせられる。 当時、これだけのものをつくることができたばかりでなく、これだけのものを必要とした人々、あるいはその生活を営んだ人々であったことを思うと、ここでも驚きを禁じ得ない。 《掘立柱建物の復元》(1面写真参照) 三内丸山遺跡における建造物で全国の注目を集めたのは、何と言っても掘立柱建物である。全てクリの木であった事も判明している。 ①柱の材質(クリ)による高さの想定。青森周辺で高さ20㍍のクリの木が発見された。 縄文時代には、当然それ以上のクリの木が原生していたものと考えられる。 ②柱穴を土質工学の見地から考察する。 発見された6つの柱穴は、正確に4.2㍍の間隔をとり2列に並んでいる。深さは2~2.5㍍も掘り下げられており、6つのうち4つに木柱根が残っていた。木柱根は0.9~1㍍程の径で最大のものは103cmであった。高さは50~65㌢ほどが残っていた。現在までに判明している考古学的な 事実は次の2点である。 ●クリの木の立て方はそれぞれが、列の内側へ角度2度ほど傾いており、計画的かつ意図的なものであって、柱を立てる際に重心が穴の中心より外側へ来るようずらして設置されていた。 ●柱を立てる際に、砂と粘土質土を交互に入れて突き固める技法がとられており、これによって柱がより固定されるようになっていた。PTは、柱が建っていた穴の底を同じ位置の(深度の)、他の外周部の土と柱の底の土を、以下の調査で比較を行い、穴底の土にどれだけの圧力が掛かっていたかを調べれば、5000年前当時の柱の重量が解明できると仮定した。 1.地層の確認 2.標準貫入試験(N値) 3.物理特性(比重、含水状態、粒土分析) 4.力学特性(一軸圧縮の強さ、粘着力、圧密先行応力) その結果、1平方㍍に16㌧の荷重が加わっていたようだ。 ここから導き出される柱の木の長さは、最小14㍍、最大23㍍という事になる。しかし、柱は先端部分になるに従って次第に細くなっていく ものであり、それを勘案すると柱の高さは、実に25㍍に達する可能性がある。 PTでは、これが単独で建っていた柱の可能性を検証しているが、結論から言うと単独の柱としては不安定で建造物として成り立たない、何らかの構造をもった建造物としての検証に進む。諸検証の結果、復元する建物の規模は、軒高が14㍍、最高部(屋根頂部)で17㍍、そして木柱の長さは掘立て部位も含めて16.5㍍となった。建物の総重量は約71㌧の規模となり、この構造だと荷重は1平方㍍あたり16㌧ちかくになり、地盤調査の結果とも整合性がとれる。 また柱の高さが約17㍍とすると風に対する抵抗の面からも一番都合がいい。この三内丸山遺跡のある津軽地方に吹く季節風は、ほぼ一年中、津軽半島と八甲田山系の間を南南西に吹いており、この大型掘立柱建物も長軸を南西-北東方向に向けており、風に対する抵抗が一番少なくすむように建てられている。 古代縄文の人々は、風向きや風力に対しての妥当な高さについて知識を持っていた。また4本柱より6本柱の方が、風に対するたわみが少なくより堅固に建っている事ができる。 いずれにせよ、今回大林組PTが行った三内丸山遺跡の復元作業は、「建築学」という観点から試みられたものだけに、今までにない新しい多くの示唆を含んでいる。歴史学の発展に新たなアプローチが加わったと言っていいだろう。

住居の変遷から見る日本史

 

 

縄文時代の平和

 数年前、青森県を旅行した際、三内丸山遺跡を見学する機会があった。この遺跡は日本最大級の縄文集落跡で、今から5,500年~4,000年前のもので、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人や子供の墓、掘立柱建物跡などがあり、当時の集落の生活環境が具体的にわかる契機となった。特に私が感動したのは、墓と大型竪穴住居であった。墓は通路の両脇に2列に配置され、仲間にいつも見守られている風であった。大型竪穴住居はおそらく集会所であったようだ。内装も再現されていたが、身分の上下、貧富の差をまったく感じさせない。 そして何よりも、この集落が1,500年も続いたことである。よっぽど居心地がよかったのだろう。環境と共存し、共同体が機能し、近隣とも仲良くやっていたのだろう。

 

 

 

 

 

戦う弥生人  

 弥生時代の遺跡として有名なのが佐賀県の吉野ヶ里遺跡である。この時代の集落の特徴は、環濠集落と呼ばれ濠や塀で何重にも防御され、日本には400以上の遺跡が確認されている。中でも吉野ヶ里遺跡は、700年続いた弥生時代(紀元前5世紀から紀元3世紀)のすべての遺構・遺物が発見されており、弥生時代の象徴とも言える遺跡だ。  弥生時代前期(BC5世紀~BC2世紀)吉野ヶ里一帯に分散的に「ムラ」が誕生、その一部に環濠を持った集落が出現し、「ムラ」から「クニ」への発展の兆しが見えてくる。 弥生時代中期(BC2世紀~AC1世紀)大きな外環濠ができ、首長を祀る「墳丘墓」や「甕棺墓地」が見られ「争い」の激化が見られる。 弥生時代後期(1世紀~3世紀)国内最大級の環濠集落へ発展。特に環濠に内郭と外郭が生まれ身分による住み分けが定着した。権力の強化に伴い建物の大型化が進んだ。

奈良時代の官僚と都市計画  

 1986年奈良市街の一角から長屋王(676年~729年)の広大な邸宅跡が発見された。敷地は67,000平米。内部も板塀で区画され、大勢の使用人や職人も住み込んでいた。長屋王は左大臣で朝廷の最高機関の責任者であった。武士が生まれる前の時代、皇族出身の官僚が「クニ」を支配するために、厳格な身分制度と土地の区画と分割が重要だったようだ。他方、庶民は竪穴住居で暮らしていた。  当時の人々の暮らしの有様を、万葉歌人のひとり山上憶良(660年~733年)は「貧窮問答歌」に詠んだ。  フセイホのマゲイホの内に 直土に 藁解きて  父母は 枕のほうに 妻子どもは 足の方に 囲み居て  憂へ吟ひ (地面に這いつくばるような粗末な家に、土の上に藁を敷いて家族が寝て居る様が物悲しい)  山上憶良は、文学に造詣が深かった長屋王の屋敷に出入りしていた。貴族の住まいと庶民の住まいを目にした憶良だからこそ、詠んだ歌であった。 (日本住居史 小沢朝江、水沼淑子著 吉川弘文館参照)