コラム

玉川上水今昔物語

地質時代 第5号 2015年4月 1面

江戸は一日してならず

地質時代1号で、徳川家康は江戸入府に先立って、1594年~1654年に「利根川東遷」での関東平野の治水事業の実施を紹介しました。これに先立つ1590年、家康は大久保藤五郎に水道の見立てを命じ、藤五郎は、小石川上水を作り上げたと伝えられています。その後、1629年には、井之頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする神田上水が完成。南西部では赤坂溜池を水源として利用していました。1609年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ロドリゴの見聞録)でしたが、3代将軍家光の時、参勤交代の制度が確立すると、人口増加に拍車がかかり、既存の水道では足りなくなり、新しい上水の開発が日程に上りました。 1652年、幕府は多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立てました。工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、工事請負人は庄右衛門と清右衛門兄弟に決定。水道奉行に伊奈半十郎忠治が命ぜられました。1653年4月4日着工し11月15日に羽村取水口から四谷大木戸まで素掘りが完成。全長43km、高低差92mの緩勾配です。180m/日の驚異的進捗率です。 翌年6月には虎ノ門まで地下に石樋、木樋による配水管を敷設、江戸城はじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋一帯に給水しました。兄弟は褒章に玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられました。 明治になると、末端の木樋に汚水が流入し、しばしばコレラが大流行するようになり、浄水場で原水ををろ過し、鉄管を通じて加圧給水する近代水道の建設が急務となりました。1898年12月、玉川上水を導水路として、代田橋付近から淀橋浄水場までを結ぶ新水路を建設、神田、日本橋方面に給水を開始しました。  1965年には、利根川の水が東京に導かれ、淀橋浄水場は廃止。玉川上水は導水路としての役割を終えました。1984年には、清流復活事業の一環で、昭島市の東京都下水道局多摩川上流再生センターで処理された再生水は、高井戸を経緯し、神田川に合流しています。  2012年、新宿区は、新宿御苑の北を走る国道20号線のトンネル上部に「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」の供用を開始しました。水路の水源は、この地下トンネルの地下水をポンプアップして利用。ヒートアイランド現象の緩和にも期待されています。

浦安液状化裁判判決の本質

下の写真は産業総合研究所による、茨城県神栖市の液状化地域でのトレンチ調査。泥層を突き抜けて地表に突き抜ける噴砂脈が観察できる。

10月8日と31日、浦安市で発生した東日本大震災での液状化被害の損害賠償裁判が、相次いで一審、住民側敗訴の判決が下されました。 8日の裁判では、三井不動産が1981年以降に行った分譲地に対するもので、判決は「住宅の販売時(1981年当時)に液状化を予測するのは困難だった」と判断しました。また、三井不動産が研究者の報告をもとに、液状化に有効とされる工法をとっていたことも挙げ、「対策が不十分だったとは言えない」としました。 31日の裁判では、やはり、三井不動産が2003年~2005年にかけて分譲した土地に対するもので、判決は、「揺れる時間が数十秒の通常の地震が想定されていた」と指摘。「今回のように2分も続く地震は、当時の知見では予測不可能だった」として、業者側の責任を否定しました。 住民側にとって、まったく気の毒な判決となりました。判決の趣旨は、「当時は科学的に自然現象を予測できなかったのは、過失ではない。」ということであります。しかし、科学は常に発展しているとはいえ、自然現象が常に新しい課題を提起するのであって、決して科学が自然に追いつくことはないことは明白です。しかも、法律は自然科学のはるか後ろをゆっくりと歩いています。したがって、自然現象に起因する災害被害の行き着く先は「想定外」という聞きなれた言葉に収束していきます。今回の2例の判決の本質は、福島原発と同じ問題が提起されているように思われます。 現代社会において、日本人が初めて液状化現象を意識したのは、1964年の新潟地震でした。この時から、液状化を考慮した構造物設計指針の導入が始まりました。以下、概観します。

1964年(S39)新潟地震 M7.5

1964年(S42)東京都江東・墨田の液状化マップ作成

1974年(S49)建築基礎構造物設計基準

1983年(S59)日本海中部地震 M7.7

1984年(S60)宅地耐震設計マニュアル(案)

1987年(S63)東京低地の液状化予測マップ

1995年(H07)阪神淡路大震災 M7.2

1998年(H10)液状化地域ゾーニングマニュアル(国土庁)

2000年(H12)鳥取県西部地震 M7.3

2003年(H15)宅地耐震設計マニュアル(案)現UR

2004年(H16)浦安市地震防災基礎調査

2011年(H23)東日本大震災 M9.0

2013年(H25)宅地の液状化被害可能性判定に係る技術指針(案)  

これでも「想定外」は付きまとうでしょう。さらに火災や倒壊を考慮すると、暗澹たる気持ちになります。しかし、それでも、人々は立ち上がり、復興してきた姿を見るとき、本当の財産と防災は、地域住民の絆、共同体の力以外にないように思われます。

米国土木学会選定 20世紀10大プロジェクト『関空』の地盤沈下

地質時代 第4号 2014年10月 二面

 

 

 関西空港は、アメリカ土木学会の選定する20世紀の10大プロジェクトのうちの空港部門に選定されている。橋梁部門ではゴールデンブリッジ、高層ビル部門ではエンパイヤーステートビルの名があげられている。それだけすごい施設であるが、圧密沈下もすさまじく、建設以降最大14m以上も沈下しており、沈下量は少なくなっているが、まだ収まっていない。厄介なのは、Maと表示された海成粘土層でMa1(最下部)~Ma13(最上部)まで、13層の粘土層が500m近くまで分布し、各層で空港島の荷重を受け沈下している。Ma13はサンドパイルの打設で沈下は収束したが、それはせいぜい20m程度。50年後も『関空』残っているのか?

御嶽山噴火と噴火予知

地質時代 第4号 2014年10月発行 第1面 

 9月27日11時52分、秋の登山客で賑わう御嶽山が突如噴火、12名が死亡した。生存者の話では、山頂近くにいた人々は、山小屋や神社の庇に避難する1~2秒差で生死を分けたという。アッという間に火山灰が積もり、呼吸困難に。また、降ってきた石で頭が陥没した人、子供の「苦しいよう」という言葉に父親がはげます声が、やがて聞こえなくなるなど、まさに地獄絵が展開された。翌28日(日曜日)、火山噴火予知連絡会拡大幹事会が開催され、御嶽山噴火の検討が行われた。メンバーは国立大学、国土地理院、気象庁、国交省など。検討結果は、水蒸気噴火であったことが確認された。また、噴火7分前に山体が膨張する現象、火山性地震などが観測された。また9月上旬に一旦、火山性地震が増加したがその後は沈静化しており、火山課長は「前兆をとらえ予知するのは難しかった」と語った。  世界の活火山の7%が日本に集中している。ちなみに、活火山の定義は「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」と定義され現在110ある。さらに、2009年6月には、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び社会的影響を踏まえ、「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要のある火山」として47火山が火山噴火予知連絡会によって選定された。これらの火山では、地震計、傾斜計、空振計、遠望カメラ、GPS観測による24時間の観測体制がとられいる。御嶽山はこのひとつ。1~2秒で生死を分けたのであれば、7分あれば警報やサイレンでなんとかならなかったのだろうか?

 

江戸の遺跡

 

地質時代 第3号 2014年9月発行 第2面 江戸の遺跡

左の写真は、最近オープンした「コレド日本橋」の旧東急デパート新館跡地から発掘した18世紀中ごろの商家の遺跡です。小さくてわからないが、石組みの下水、木組みの下水、井戸、穴蔵、など遺構が多数出土した。とりわけ注目すべきは木組みの頑丈な穴蔵です。穴蔵とは、火事が多かった江戸の町で、頑丈な金庫がない時代、貴重な財産を地下に穴を掘って埋めることで守っていたとのこと。写真でみると、江戸時代の建物は現状地盤よりかなり低いところにあります。これは、度重なる火事や地震、そして空襲での瓦礫が堆積したもので、今回の大規模な再開発がないかぎり財宝が埋もれたままになっている可能性は非常に大きいと思います。

 

 

 

左図は、中央区でこれまで発掘された遺跡の地図です。ほとんど江戸時代の遺跡になります。これらは、建設工事の根伐り工事が契機に発見されることが多いようです。掘削工事でもしないと容易と発見できません。今、都心のビルの老朽化が進み、都からは厳しい耐震基準が指導されています。ビルの解体建て替えはこれからが本番。建設会社は江戸トレジャーハンターになるかもしれません。また、日本橋小伝馬町では伝馬町牢屋敷が発掘されました。安政の大獄で吉田松陰や橋本左内らが投獄、その他、平賀源内、高野長英、渡辺崋山、佐久間象山など歴史上の有名人が入牢してました。

広島市土石流災害の悲劇!

地質時代 第3号 2014年9月 一面  

 8月20日に発生した、広島市の土砂災害は、死者72名、行方不明者2名(8月29日現在)という悲劇をもたらしました。 国土交通省の調べでは、全国に土砂災害の危険個所に指定されているのは525,307個所にものぼるとのこと。今回被災した地区は警戒区域どころか危険個所の指定もなかった。行政は危険性を認識しつつも、対策工事を行う義務の発生に逡巡があったようだ。また、警戒個所としてハザードマップにのれば、不動産価格に影響があることもあり、住民説明での確認も必要になってくる。安全安心よりも経済を優先するこのような経済的背景が、被害を大きくした原因ではなかったのか?

 上2枚の写真は、グーグルストリートヴューで見た安佐南区八木3丁目付近の土石流前の町並み。奥の山並みが不気味に住宅地を睥睨しているが、日本のどこにでもありそうな雰囲気。もう一枚は、なんと住宅新築中の工事現場。被災の有無は分らないが、丘陵地の危険地域であることはまちがいない。

 中の写真は、八木3丁目の被災状況。原形がまったくわからない。時速40kmで数千~十万トンの土砂と水と材木と岩石が襲い掛かってきた。 

 

 

 

 

 

下の写真は、安佐南区の八木地区と緑井地区の空中写真。阿武山に裾野から這い登るように宅地開発が進んでいることがわかる。土肌が出ているところが今回、土砂崩れを起こした個所。こうして、高い視点でみると如何に危険であったのか、いや、現在も危険であることに戦慄を覚える。 われわれ地質調査業者の責任は、このような高い視点で危険を喚起し続けることかもしれない。 ご冥福をお祈りいたします。

江戸城無血開城の歴史的経済的社会的背景

地質時代 第2号 2014年8月 二面

大政奉還と勝・西郷会談


  明治維新は、古今東西の革命の例にもれず戦争の産物でした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、野洲梁田の戦い、市川・船橋戦争、宇都宮城の戦い、上野戦争、東北戦争、函館戦争など無数の戦いが全国で戦われた。前後して1868年幕府の血を求める官軍の行進が江戸に向かった。
 当時の江戸は100万都市であり、日本中のモノの基地であった。江戸との物流が地方の生命線でもあった。しかし、日本列島の地形は、山と谷、川と海に分断させられ、その結果幾多の藩が生まれ、戦国時代には覇権を争った。江戸時代になって、農業生産を飛躍的に発展させる土木工事が行われ、農民たちは協力して土木工事に参加し、農村での共同体意識は格段に高まっていった。
 さらに、広重の東海道五三次をみるとそこには各宿場の風景と生き生きとした人々の姿がすべての絵に描かれている。出発の日本橋では様々な職業の人が橋を覆い隠すよう歩いている。終点の京都三条大橋でも同様である。生産力の発展が日本の地形的分断性を物流によって克服させ、江戸を単なる幕府の居城から日本の中心という意識がすべての日本人に共有されていたことが伺える。そのような意識が勝と西郷をとらえ、江戸の壊滅は地方の壊滅に繋がると判断し、無血開城に繋がったように思う。

広重 東海道五十三次 日本橋

広重 東海道五十三次 京都三条大橋

26歳の若き土木技術者が80年前に創造したドーム型防波堤

地質時代 第2号 2014年8月 一面

稚内港北防波堤ドーム

1936年(昭和11年)稚内築港事務所の26歳の技手、土谷実(1904~1997)が設計。稚内特有の強風とサハリンからの高波を防ぐために考案された、庇の付いた防波堤です。土谷は築港事務所の先輩技術者である平尾俊雄から指導を受け、平尾がフリーハンドで描いたものを具体化しました。 事実の把握、そして歴史に学べ  この構造物は、見栄や利権や営利からではなく、強風や高波から人々を守る目的で設計されました。  平尾はこの北防波堤設計にあたり、土谷に次のことを命じました。波の高さと基礎となるべき当時は主流の木杭の腐食調査です。その結果、木杭は虫に食われ役に立たないこと、高波の高さは24尺(7.27m)を優に超えることが判明しました。そこで、平尾は防波堤に天蓋を設け、コンクリート杭を使う決断をしました。全体の形状は越波の観察からイメージしたものです。  土谷は途方に暮れました。いまだかつて経験したことのない設計でした。彼が採用したのは、彼が経験したコンクリートアーチ橋とギリシャ・ローマ建築の資料でした。「歴史に学べ」という格言の重さを再認識しました。  

事実の把握、そして歴史に学べ  

 この構造物は、見栄や利権や営利からではなく、強風や高波から人々を守る目的で設計されました。  平尾はこの北防波堤設計にあたり、土谷に次のことを命じました。波の高さと基礎となるべき当時は主流の木杭の腐食調査です。その結果、木杭は虫に食われ役に立たないこと、高波の高さは24尺(7.27m)を優に超えることが判明しました。そこで、平尾は防波堤に天蓋を設け、コンクリート杭を使う決断をしました。全体の形状は越波の観察からイメージしたものです。  土谷は途方に暮れました。いまだかつて経験したことのない設計でした。彼が採用したのは、彼が経験したコンクリートアーチ橋とギリシャ・ローマ建築の資料でした。「歴史に学べ」という格言の重さを再認識しました。  

利根川東遷は、大穀倉地帯をもたらした!

地質時代 第1号 2014年7月 二面

利根川のスペック

日本最大の流域面積。第二位の長さ(信濃川が一位)。日本の人口の1割1200万人が暮らす。3055万人が飲料水を得る。霞ヶ浦は大きな入江だったが川の土砂が積もって湖沼になった。万葉集では、「香取の海」「香取の沖」と詠まれた。

約1000年前の関東平野の想像図

 

洪水の歴史

858 天安2年武蔵の国に大洪水あり。

1194 建久5年11月2日頼朝太田庄(現在吉川附近)の堤防を修埋し利根川沿岸の荒地を開墾。

1201 正治3年8月関東一帯大暴風雨、北暮地方大津波死者一千余人。

1337 正元2年2月5日尊氏一色大興寺入道範行に命し浦和の調神社を造営させ社額として五ケ村 を寄進す。

1540 天文9年8月武相地方に大暴風雨あり。

1592 天正20年利根川改修治水工事開始特に中条村の築堤川保村の会川開削など行なわる。

1614 慶長19年1月代官伊奈忠政北葛二合半領に条例を出して開墾を奨励す。

1632 寛永10年比企東辺の荒川大改修。北埼に流れていた河流をせき止め吉見領内で和田、吉野、 南川を合流させる。

1640 寛永17年庄内領小島庄左衛門は郡代伊奈忠次に計り関宿より宝珠花金杉に至る新水路を開 く。

1654 承慶3年6月川越藩主松半信綱の家臣安松金右衛門の設計監督の下に玉川上水完工次いで 野火止用水が引かる。

1717 享保2年7月関東一円大風雨あり洪水となる。北葛二合半領松伏領水害はなはだし、江戸幕 府は災民二千五百人を救助す。

1728 享保13年9月関東一円に大暴風雨あり各所に洪水起こる。

1732 享保17年4月関東一円大凶作米価暴騰餓死する者多し。 秩父の宮前佐右衛門穀物を放出して救助す。

1737 元文2年利根用大洪水。

1738 元文3年7月洪水。

1742 寛保2年8月関東一円暴風雨にて荒川、利根川はんらんし、かつてなき大洪水となる。

1749 寛延2年8月洪水、千住堤、利根川堤決壌。

1771 明和8年8月大洪水。

1772 安永元年8月関東奥羽地方に大暴風雨襲来、権現堂川の堤防ついに決壊す。

1780 安永9年利根川大洪水。

1782 天明2年6月供水の為代用水路砂埋多し、7月大地震。

1786 天明6年7月関東一円大洪水、利根川、荒川はんらん各所堤防決壊し特に粟橋、岩槻、羽 生、草加地区の被害甚大。

1791 寛政2年8月関東大風雨、諸河川大はんらんし荒川堤防決壊す。

1802 享和2年7月洪水。

1823 文政6年5月洪水の為熊谷堤決壊。

1833 天保4年8月開東一日大洪水となり農作物被害甚大米価高騰。

1846 弘化3年大洪水。

1859 安政6年7月武蔵大暴風雨。 熊谷堤決壊。 利根用、荒川、神流川大はんらんし堤防決壊人家流出人畜の死傷甚大。

1865 慶応元年6月洪水。

1869 明治2年9月大宮県を浦和県と改称県庁舎を浦和におく。

1881 明治14年見沼代用水路埼玉県直営許可さる。

1882 明治15年大暴風雨。 利根川、渡良瀬川はんらん、北埼川辺、利根の二村浸水。

1886 明治19年7月東京方面よりコレラ本県に侵入、9月に至りようやく終息す。

1890 明治23年8月県下一円長期にわたり、りん(霖)雨続きついに大水害。

1898 明治31年9月大洪水の為八間堤下、小林・栢間両村内大騒擾、憲兵出動。被害町村 316、死者16、堤防決壊農作物冠水腐蝕し被害甚大。

1907 明治40年8月県下大暴風雨襲来大洪水となり利根・荒川堤防決壊農作物被害甚大。

1910 明治43年8月連日の豪雨にて利根・荒川の堤防決壊大洪水となり被害甚大、死者224 名、家屋流水1621戸、橋梁の流出百、道路決壊200、山崩870ヶ所。 9月15日埼玉治水会創設さる。

1932 昭和7年11月中仙道戸田橋かけ替え工事完工式挙行。この年中瀬橋、治水橋いづれも完工。

1935 昭和10年9月洪氷の為水路堤防の被害甚大。

1938 昭和13年9月大雨続き荒川堤防決壊。

1948 昭和22年9月キヤスリン台風襲来空前の大洪水となり、利根川東村の堤防決壊のため大 浸水、美田一朝にして泥土と化し損害百億に及ぶ。

1949 昭和23年9月アイオン台風による洪水の為水路堤防の被害甚大。

1957 昭和33年8月台風17号和歌山県に上陸、本県農作物158800000円相当の被害、川口市芝 川がはんらん5000戸浸水、奥秩父でも650戸孤立、見沼用水決壊、戸田、大宮に自衛隊出動。

家康の大土木工事が関東平野を作り、江戸260年の土台を作った!

地質時代 第1号 2014年7月 一面

 

利根川東遷

 江戸湾に注いでいた利根川の流路が現在の形になったのは、近世初頭の約60年間(1594年~1654年)にわたって行われた利根川東遷と呼ばれる改修工事の結果です。その目的は、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を促進すること。舟運を開いて、東北と関東との輸送体系を確立することにありました。この工事によって、現在の霞ヶ浦は、川が運んできた土砂のために河口部分がせき止められ大きな湖となりました。現在の利根川は銚子に流れる大河となっていますが、江戸時代中頃までは銚子に流れ出ていたのは鬼怒川と小貝川が合流した常陸川でした。   江戸以前の利根川は前橋付近で平野部へはいり、渡良瀬川と合流して南へ下り、さらに荒川(元荒川)とも合流して現在の隅田川、中川、江戸川を流末として東京湾に流れ込んでいました(江戸川については後述)。  江戸開府とともに徳川家康は東京湾に流れていた利根川水系の治水に着手し、洪水地帯を農耕地に変え、水運路の強化を行っています。その治水と開拓の統括をしていたのは家康の重臣であった関東郡代の伊奈氏で、信玄堤などの武田流の土木技術を習得していたとされます。   その手法は自然地形を利用し自然堤防を強化して遊水地域(浸水を許容する地域)を設け、低い堤防で洪水の勢いを分散させて重要地を守り、小被害は許容する考え方によるもので、関東流または伊奈流とも呼びます。  部分的に浸水を許容するのでその地域に居住はできませんが、肥料分の多い洪水流土を農耕に利用することができ、河川と周辺環境が連絡している長所があります。(輪中という小堤防で村落を囲ったり、個々の家が高い基礎を作って浸水を防御する場合もあります)江戸時代初期の関東の治水はほとんどがこの考え方で行われています。

広重の江戸百景、三ノ輪、三河島あたりは丹頂鶴が遊ぶ湿地帯だった

関東平野の南北に流れていた利根川を銚子に引き込んで、堆積した土砂によって霞ヶ浦が出来上がった